【6】マンジュリカの懊悩(一)

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 その後はとりとめのない――主に八祥寺家での仕事の話をし、二人は店を出た。 「私はどうにも自由がきかない身であるため、今後も誠吾に動いてもらうことが多々あるかと思いますが。何かありましたらご連絡ください」  手が空いたら電話番号を教えます。西瓜(スイカ)を両腕に抱えながら、神瀬は珠乃の耳元でささやいた。彼の背丈は珠乃よりも頭一つ分高いので、少し首をかしぐとそのようになる。 「ありがとうございます。将校様はお忙しいでしょうに」 「忙しいのはそうなのですが、周りに振り回される忙しさですね」  軍靴を地面にざっと擦り付け、彼は苦笑した。大通りから数本外れた土の道は、先刻の霧雨によってまだらに濡れている。できるだけ乾きの早い場所を選び、二人は並んで歩く。 「今日は本来休暇の予定だったのですが。昼頃、突然上官に呼び出されまして」 「まぁ。だからその服装で?」 「ええ。着替える時間もなく、失礼いたしました」 「いいえ。それはお気になさらないでくださいませ」  戸惑わなかったわけではないが、結局は軍服でなくとも目立つ人だと珠乃は考えていた。仮にくだけた着流しで来ていたとしても、彼の外貌は多くの男女の注目を集めただろう。 「珠乃さんは仕事着ではないのですね」 「嫌ですわ。すごく目立ちますのよ、メイド服(あれ)って」 「そうでしょうね」  神瀬は西瓜(スイカ)に顔を伏せるようにし、くすくすと笑った。夏の実りも彼の横顔も、晴れ渡った今の空にはよく似合う。雨上がりの道はすぐに照り上がるだろうと珠乃には思われた。  ――そうこう話しているうちに、二人は八祥寺家に繋がる坂の下に着いた。 「ではまた」  珠乃の買った西瓜(スイカ)、それから急いで書き付けた連絡先を珠乃に渡し、神瀬は軍帽のつばに指を添える。 「あ――」 「何か?」  珠乃が視線を落とすと、神瀬は心配そうに聞いてきた。いいえ。珠乃は首を横に振って、屈託のない笑顔をつくる。 「何でもないのです。今日を振り返ってみて、本当に菖蒲の人なのだな――と思っただけですわ」  神瀬は気付いていないかもしれないが。目の前で見せられた彼の筆致が、何よりの証だった。 「神瀬様は、手紙も書き付けも美しく綴るのですね」  言われた神瀬は「ああ」と相づちを打ち、口の端を曖昧に引き上げた。 「周囲には、古ぼけた書き癖だと言われますよ」 「そうですか? 確かに最初は、ご年配の方とも考えましたけれど……」 「共に暮らしていると似るのでしょうか。祖母と二人暮らしなのです」 「お二人だけですか?」 「ええ。使用人なんていませんよ。寂しい家です」 「まぁ――そうなのですね」  二人だけで、女中もいないとは。あまりよくないと思いながらも、珠乃は驚きをあらわにした。その立ち居振る舞いから、結構な家格の人だと予想していたのに。  珠乃の反応を気に留めず、神瀬は優しい笑みで切り出した。 「では、私はそろそろ。――どうかお気を付けて。何事もご無理はなさらないで」 「はい、失礼いたします。西瓜(スイカ)を運んでくださり、ありがとうございました」  そうしてゆっくりと神瀬と別れ、珠乃は八祥寺家までの坂を上り始めた。心なしか足が軽い。放っておくとステップを踏んでしまいそうで、渡された西瓜(スイカ)の重みがむしろありがたかった。
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