852人が本棚に入れています
本棚に追加
その後はとりとめのない――主に八祥寺家での仕事の話をし、二人は店を出た。
「私はどうにも自由がきかない身であるため、今後も誠吾に動いてもらうことが多々あるかと思いますが。何かありましたらご連絡ください」
手が空いたら電話番号を教えます。西瓜を両腕に抱えながら、神瀬は珠乃の耳元でささやいた。彼の背丈は珠乃よりも頭一つ分高いので、少し首をかしぐとそのようになる。
「ありがとうございます。将校様はお忙しいでしょうに」
「忙しいのはそうなのですが、周りに振り回される忙しさですね」
軍靴を地面にざっと擦り付け、彼は苦笑した。大通りから数本外れた土の道は、先刻の霧雨によってまだらに濡れている。できるだけ乾きの早い場所を選び、二人は並んで歩く。
「今日は本来休暇の予定だったのですが。昼頃、突然上官に呼び出されまして」
「まぁ。だからその服装で?」
「ええ。着替える時間もなく、失礼いたしました」
「いいえ。それはお気になさらないでくださいませ」
戸惑わなかったわけではないが、結局は軍服でなくとも目立つ人だと珠乃は考えていた。仮にくだけた着流しで来ていたとしても、彼の外貌は多くの男女の注目を集めただろう。
「珠乃さんは仕事着ではないのですね」
「嫌ですわ。すごく目立ちますのよ、メイド服って」
「そうでしょうね」
神瀬は西瓜に顔を伏せるようにし、くすくすと笑った。夏の実りも彼の横顔も、晴れ渡った今の空にはよく似合う。雨上がりの道はすぐに照り上がるだろうと珠乃には思われた。
――そうこう話しているうちに、二人は八祥寺家に繋がる坂の下に着いた。
「ではまた」
珠乃の買った西瓜、それから急いで書き付けた連絡先を珠乃に渡し、神瀬は軍帽のつばに指を添える。
「あ――」
「何か?」
珠乃が視線を落とすと、神瀬は心配そうに聞いてきた。いいえ。珠乃は首を横に振って、屈託のない笑顔をつくる。
「何でもないのです。今日を振り返ってみて、本当に菖蒲の人なのだな――と思っただけですわ」
神瀬は気付いていないかもしれないが。目の前で見せられた彼の筆致が、何よりの証だった。
「神瀬様は、手紙も書き付けも美しく綴るのですね」
言われた神瀬は「ああ」と相づちを打ち、口の端を曖昧に引き上げた。
「周囲には、古ぼけた書き癖だと言われますよ」
「そうですか? 確かに最初は、ご年配の方とも考えましたけれど……」
「共に暮らしていると似るのでしょうか。祖母と二人暮らしなのです」
「お二人だけですか?」
「ええ。使用人なんていませんよ。寂しい家です」
「まぁ――そうなのですね」
二人だけで、女中もいないとは。あまりよくないと思いながらも、珠乃は驚きをあらわにした。その立ち居振る舞いから、結構な家格の人だと予想していたのに。
珠乃の反応を気に留めず、神瀬は優しい笑みで切り出した。
「では、私はそろそろ。――どうかお気を付けて。何事もご無理はなさらないで」
「はい、失礼いたします。西瓜を運んでくださり、ありがとうございました」
そうしてゆっくりと神瀬と別れ、珠乃は八祥寺家までの坂を上り始めた。心なしか足が軽い。放っておくとステップを踏んでしまいそうで、渡された西瓜の重みがむしろありがたかった。
最初のコメントを投稿しよう!