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【7】マンジュリカの懊悩(二)
主家の晩餐に給仕した珠乃は、宿舎へと戻る前に調理場に寄った。西瓜を冷やす冷蔵箱はそこにしかなかったため、料理人たちにわけを話して使わせてもらったのだ。
彫りの凝ったオーク材に、鍍金の留め金。富家が持つ冷蔵箱は一般に大きく重厚で、まさに舶来の調度品といった趣がある。
大ぶりの西瓜も収まって余りある寸法だったが、すぐに冷えるよう切り分けて入れていた。留め金を外し木戸を開くと、皿に並べられた西瓜の断面が赤く、雫を付けている。
氷の冷気によって潤沢に冷えた果実を取り出し、珠乃はまだ仕事中である料理人の分を別皿に取り分けた。彼らはメイドのまかないも担当してくれているので、その礼も兼ねている。
「お先に失礼いたします。お疲れ様でした」
珠乃がお辞儀をすると、その場にいた料理人たちが各々挨拶をしてくれた。珠乃と同僚たちの関係は良好だ。ただ一人、志摩子を除いては。
寝静まる最中の屋敷を移動しながら、珠乃は窓越しにシガールームを見た。誠吾が言っていた、菫が喫煙しているという話――正しくは、彼女が紙煙草をくすねているという話が、気になって仕方ない。
菫お嬢様って、煙草吸うの?
「あの、ちょっとお待ちくださいませ」
誠吾の質問をすぐには噛み砕けず、珠乃は大きくうろたえながら聞き返した。
「どういうことですの? 菫様が喫煙をしているなんて」
「かもしれない、だけどな」
帰る方向へ向けていた雪駄の先を、誠吾は再び珠乃に戻す。彼にとってはついでの話だったはずなのだが、珠乃の反応が想像以上だったのだろう、きちんと説明を足してくれた。
「今日のティーパーティー。屋敷の中をこそこそ見て回ってたらさ、菫お嬢様ともう一人……おさげ髪した大人しそうなメイドが、紙煙草のやり取りしてたんだよ」
「そのメイドは多分、志摩子さんだと思うのですけれど……」
外見の特徴もそうだが、菫と二人きりになるメイドなど彼女以外に考えられない。
「銘柄は何だったかな。遠目だけど敷島だったような気がする、まぁ定番だよな」
「それで、その紙煙草はメイドから菫様の手に渡ったのでしょうか?」
「ああ。怪しい品の売買みたいに、ひと気のない場所でこっそり渡してた。お互い手慣れてるよ、あれは」
「そうですの……」
珠乃はティーパーティーでの菫を思い出し、なんとも言い知れぬ不安を抱いた。少女らしい菫の振る舞いと、幸せに染まった柿色のドレス。あの袖の下には、それらには不似合いの紙煙草が潜んでいたのかもしれない。
珠乃は思考を巡らせながら、窓辺に控える誠吾を見下ろした。
「メイドも時々、シガールームに煙草を届けることがあります」
雇用人は入室禁止なので、入口での受け渡しになるが。主人が煙草を切らしたときなどは、呼び鈴で馳せ参じ、届けることがたまにある。
「その際に一箱くすねる程度でしたら、できなくはないのかもしれません。特に今回のような催事で、多人数が利用するならば……」
「一箱くらいの紛失なんて、誰も気付かないだろうな」
「ええ」
手口を想像し、珠乃は胸がふさがる思いだった。生まれつき真面目で、ずるを好かない娘なのだ。たとえ横流しの相手が主家の菫であったとしても、気分はよくない。
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