見ているモノ、視えているモノの違い

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見ているモノ、視えているモノの違い

私はキッチンの真ん中を占拠しているダイニングテーブルに並べられた美味しい料理を食べている。 普段、こういう形で食べないので新鮮な光景だし、作ってもらったものを食べるものいい。 こういう体験は、なかなか出来ないことは頭で理解しつつ、どこかで楽しんでいる。 自然と笑みがこぼれて、「美味しいです」という言葉も嘘偽り無く出てくる。 真向かいには、親しい男性がいる。 一緒に食卓を囲み、同じように目の前の食事を堪能し、美味しいと頬張る。 彼にとっては、日常の食卓で食事だ。 用意した人が、彼の母親だから。 もちろん、作った本人もそこにいて、2人を優しく見守る。 これからの展開を思いはせながら。 2人は年齢的にも結婚適齢期と呼ばれる時期を少し過ぎたあたりで、母親の目から見る限り、お似合いに見えるからだ。 これらの光景だけを、誰かが垣間見ると、とある恋人同士が男性の自宅に私が招かれ、挨拶がてらのワンシーンに映るかもしれない。 けれど、それはただの妄想なのだと思う。 現実に、その光景が広がっていてその時間を共有してはいるものの、少なくとも私も相手の男性も、その後一緒に住むこともなく、今じゃ連絡すらとってはいない。 見るものも、見方と角度が変わると背景が変わってくる。 人は、同じものを見ているとよく思いがちだが、決してそうじゃない。 私にとって、悪い事と思っていても、別な視点からは正義である場合もある。 それと同じように、人のフィルターを通しての見るものは、実際の背景から歪む。 その時の私と男性と男性の母親のそれぞれ見ているものは全く違っていたけれど、それも受け取り方だと私は思う。 どこからか、違うと言われそうだが・・・。 だけれど、視点が違うから誤解も生まれたり、逆にうまく行ったりすることもある。 その場合は結果オーライではあると思う。 話を戻せば、彼が伝えた言葉は至極単純だった。 「今日、友達を連れて帰るよ。女の人だけど、泊まっていくと思う。」 ただそれだけ。シンプルかつ正確な事。 そこに母親のフィルターが掛かると、適齢期の息子が女性を連れて来て家に泊まる、という事実。 一大事なのだ。その世代なら。常識なのだ。その世代なら。 でも、すでに私達の普通ではなかった。そのくらい・・・程度の見解。 そこで違う見方ができてしまう。 男性からすれば、家の近くで遊ぶなら、家で飲み食いすればいいし、なんなら泊まれば? 程度。 私も、面白い映画ちょうど見たかったし、カラオケに行きたいから良いか?程度。 まさか、ご飯をそこで食べるとは考えてない。 でも、うちで食べればいいじゃんのノリに、まあ良いかと考える程度。 そういう背景。 だから、そんな事を思っているなんて考えてないから、のんきに 「美味しいですね」 とか言えてしまう。 もし、結婚を本気で考えているような相手だったら、ふさわしい日に、ふさわしい時間に、ふさわしい恰好で窺(うかが)う。 でも、そんな時間じゃなかったし、その男性もうちはフラットな家だからと意に介さない感じだったので従った。ただそれだけ。 考えが甘いと言われれば甘いのだが、若さってその程度しか考えられないばあいもあるのだ。 それを裏付けるように、一緒にその一晩一緒にいたけれど何もなかった。 まるで、小学生のお泊り会のような一晩だった。 それはそうだ、その当時の私は年上が好きだったし、男性は年下がすきだった。そもそも、お互いに恋愛の対象ではなかった。 ただただ、隣りにいて楽しい相手。本当にそれだけ。 だから、数年後結婚式に呼ばれて、その男性のお母さんが私の顔を見て驚くというか、愕然としていたのを見て、数年培った大人の見解から、やっとその両方の視えているもの背景にたどり着いて、知らない街の海岸を眺めながら、新郎になった男性と人生って面白いねと話せた。 笑い話に昇華されたその話は、海の彼方へと消えていった。 見ているものが視えている通りじゃないと、不安だったりする人が多いけれど、違うからこそ何かが始まったり終わったり考えたり出来るから、あくまでも個人的な見解で言うと、そういう事があるから生きていて楽しいと思える。 非常識の塊だからこそ、若いというものはエネルギーを持て余し、何か形を作れる。 その頃に戻れるとしたら、迷惑だろうけれどもっともっと失敗して怪我をして生き抜けばよかったのにと言いたい。 これでも少し、控えめに生きてしまった。そう考えると、昔の大人は本当に心が広かったのだと思う。 と、昔の事を棚上げして締めよう。
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