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『行けたら行く」 それを聞いた時の、日本人と外国人に差が出る。 昔はどうかわからないが、今の日本人の大半は 「ほぼ行けないので、お断りのためのあいさつ」と捉えている人が多いし、実際、私もそう使うことが多い。 ただ、何%かは確率が「行くこともあるよ」という意味も含めている。 実際行く予定にしていなくても、追加情報によっては心変わりする場合もある。 それを、外国人の中で日本人とのつながりが浅い人物が聞くと、来てくれるだろう確率がぐんと上がってしまう。 だから、その場に来ないとかなりびっくりするらしいし、その事に対して日本人が何も考えずに受け入れていることに理解できないことらしい。 「おしょくじけん」 これについては、もう大半の方が理解するように、ひらがなだと複数の意味があり、漢字に直して使うのが一般的かと思われる。 答えを提示すると「お食事券」か「汚職事件」である。 日本語は文脈も含めて考えながら話す、よくも悪くも忖度文化なので、ごまかしたい時には本当にいい国だと私は思っている。 昨今、メール文化が浸透し、それがLINEの普及により電話で済ませていた世代が急に慣れない媒体で、連絡をすることでよくわからない文面を送った事件があることを、ご存知の方も多いと思われる。 助詞ひとつ、ひらがな一つで意味が変わる。 面白さと畏怖が共存する言語だ。楽しい半面、恐ろしい。 家庭内では笑い話も、かたや上司や取引先になると立場が危うくなる場合もあるので、注意したほうがいい。 日本語というよりも、日本人の気質の問題で、色んな事が相手に伝わらない。 高コンテキストの代表格である日本では、京都文化に色濃く残るような本音を言わないというのが、全国的に根強く残っていると思われる。 ただ、昨今とくにSNSが普及したせいもあり、目を見ず仕草も見ずにコミュニケーションを図らなければならないので、かなり気を使って言葉を発信しなければならない。 「月が綺麗ですね」では読み手には伝わらないのが当たり前の時代なのだと実感する。 さてある時、自分は同じ側の立場で物言いをしたつもりが反対の人間だと誤解された事がある。 ディスカッションやディベートで言うところのイエス組とノー組に別れた立場で、イエス組に居たのでイエス組のつもりで発信した内容が、イエス組に君の考えは違うと言われてしまったのだ。 討論であっても意見であっても文章として「文字」で提出したそれだけなのである。 何度も読み返し、「個人的にはそういう事にこれを利用するのはいかがなものか」という意見内容で綴った。 「私は利用されると困る、利用しないで欲しいのに、結果利用された」 と言った意味で投稿した。 ところがである。 それに対して私が擁護したはずの内側から、そういうことに利用するな!といったお叱りをうけてしまったのだ。 私は、どうやら何か癇に障ってしまうことを記載してしまったようだった。 その件を別なところで同じことを綴ると、面白いことにきちんと私の文面を理解しきちんと把握してくれた。 発表の場の違いは、不特定の大多数の前か私の立ち位置を理解している大勢の前かの違いである。 割合でいうと、1(不特定):9(理解組)の割合で私の言うことがどうやら擁護側の意見で良かったことになるのだった。 しかし、これは私にとってはとても面白い現象のことと勝手にリンクした。 自分の未熟さを棚上げしていいたいのだが・・・。 とある、チェーン店がアンケートを取った時の話だ。 この件をご存じの方もいると思うが、そこの会社は「何故当社を利用しないのか」というアンケートを全国的に行った。 回答に多かったのは、「野菜がないから」という答えで慌ててその会社は野菜に関係する商品を提供しだした。 しかし、その商品はあまりヒットしなかった。 私の個人的な落とし所でいうと、受け手の意識の差にあるのではと考えている。(今のこの文を書いている時点では、諸事情でお酒を飲んだ後でこれを綴っているので、意味がわからないかもしれないけれど←駄目な人) 私の意見については、私は大好きなその事柄を評価しているということを読みての「1」側に人たちに伝わっておらず、結果「そっち側」と認定されてしまった。 アンケートにおいては、そもそもアンケートに答えた人たちは、そこにもともと利用しようと思ってないところで、問われたからと言いたいことを言ったことを忘れているところ。 そういうチグハグが、以前だったら通じていたはずなのに今は1からきちんと説明しないと通じないということを、私も会社も気がつくことが出来たという・・・。(そんな話で、実につまらないのに、長々すみません。) つまりは、今、つい少数意見に振り回される傾向があるけれど、こっち側で考える際に、どれだけ伝わるかを検証しても、捉える側が広い心を持っていないと、反撃に合うこともあったり、欲しい答えを手に入れられなかったりする事があるということが見えてきて面白かった。 一方で、その意見等に振り回され疲弊して、結果何も生み出せなくなっている昨今の世の中の了見の狭さをも時代の流れなのかと嘆きつつ、またどこかでマウントの取り合いになっていくことに懸念しつつ、また今日もこういうのも教説のネタにならないものか・・・と文字を綴っていたりするわけである。
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