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「…では、続いてお聞きします。お二人がコンビを組まれてから、印象に残っているエピソードは何かありますか?」
「…えっと。単独ライブしたときに、初めて面と向かってお客さんに面白いって言われたことです」
そう言うと、相方がニヤニヤしながら俺にツッコミを入れる。
「こいつ全然つまらんギャグ言ったんですけど、なぜかファンの子めっちゃ受けてて」
「…はい。あれはほんま今思い出しても恥ずかしいです」
大樹から初めて「面白い」と言われた日のことは忘れない。
彼と初めて出会ったのは、5年前の春。大阪の小さな商社でのサラリーマンを1年でやめて入った養成所で出会った、同じく脱サラして入ってきた同い年の相方とコンビを組んでから1か月、初の単独ライブの日だった。会場は、なけなしのバイト代を出し合って借りた難波の小さなライブハウス。芸人仲間に手伝ってもらい告知もしたし、開演前に呼び込みもしたけれど、100人入るはずの会場には10人くらいしかお客さんがいなくて、しかもその殆どは事務所の関係者だった。それでも全力で漫才をやった。笑い声は終始まばらで、俺が温めてきた渾身のボケで会場が静まり返ったとき、心が折れるかと思った。それでもなんとかやり切り、終演後の挨拶兼次回のライブのチケットの手売りをしていたとき、黒縁メガネをかけた見知らぬ小柄な男性が真っ赤な顔で意を決したように、上目遣いで俺に話しかけてきた。
「…え、えっと、あの、お、お疲れ様です。ね、ネットでお二人の漫才見て、きょ、今日初めて、生で見たんですけど、す、すごく、面白くて、あの、ありがとうございました」
彼の手はプルプルと震え、大きな瞳は緊張のせいか赤くうるんでいる。そんなに緊張してまで、俺に声をかけてくれたことが、とても嬉しかった。それに、コントはSNSで毎日アップしているけれど、再生回数は多くて20回だ。まさかそれを見て、会場にまで足を運んでくれる人がいたとは。
「ありがとう。めっちゃ嬉しい」
そう言うと、彼は力強くうなずき、目を輝かせた。
「あの、中盤で投げやりに、時すでにお寿司!って叫ぶところ、すごい面白くて、笑い過ぎて、お腹痛かったです」
それは今回のライブのために俺が温めてきた渾身のボケだった。滑り倒したと思っていたけど、笑ってくれる人がいたとは。
「嘘やろ?!あんなしょうもないギャグで?!マジか!!悔しい!!」
相方が隣でギャーギャー騒いでいたが、俺は彼の両手を握りしめ、振り回した。
「ほんまに、ありがとう。俺ら今日はあんまやったけど、これからもっともっとおもろなるから、次も見に来てや」
そう言って、俺はポケットから関係者用の無料チケットを取り出した。
「これ次のチケット。ほんまはタダで渡したらアカンやつやねんけど、君は俺らのファン第一号やから特別や。絶対来てな」
そう言うと、彼はじっと俺の目を見て、さらに頬を赤くし、こくりとうなずいた。半ば無理やりの約束だったけれど、彼は次のライブにも足を運んでくれ、タダでは申し訳ないからとお菓子の差し入れまでしてくれた。終演後は、相変わらず緊張した面持ちで「次のライブはいつですか?」と聞いてくれた。俺は嬉しすぎて、直接ライブの予定を伝えたいからとラインの連絡先を交換した。その後も告知をするたびに「承知しました。必ずお伺いいたします。」という馬鹿丁寧な返事が来て、彼は仕事の合間を縫って欠かさずライブに駆けつけてくれた。ラインでライブ告知以外の話をしても既読スルーされるが、ライブ後のアンケートでは必ず俺たちの名前を書いてくれるし、ライブ翌日には丁寧な感想がびっしり書き込まれたファンレターが届く。必要以上に自分たちに干渉してくることはなく、まさにファンの鑑だった。ただ、何度もライブ会場で会っているのに、唯一知っているのが、アンケートを見て知った情報ー彼の名前が大樹だということ、彼が23歳であることだけであることが、俺は少し悲しかった。それを相方に話すと「あんまり入れ込みすぎんなや。大樹くんはめっちゃ有難い存在やけど、お客様なんやから」とたしなめられ、俺はそれもそうかとうなだれた。
初の単独ライブから1年が過ぎたある日、バイト先のラーメン屋に大樹が昼食を食べに来た。偶然だったらしく彼はひどく驚いていたが、嬉しすぎた俺は店長に隠れてこっそりラーメン無料券を渡した。きっと、申し訳なく思った彼がまた店に来るだろうと信じて。
案の定、律義な彼はまたラーメン屋にやってきて、無料券を使わずにラーメンを食べて帰った。俺はまた懲りずに無料券を渡した。そんな押収が1か月も続くと、彼はいつも通り味噌ラーメンを注文しながら小声で言った。
「…もうこんなことされなくても普通にラーメン食べに来ますから。こんなに無料券配ってたら、クビになりますよ」
「心配いらんで。大樹にしか配ってへんから」
「…そういうとこですよ。天然人たらし」
「え?何?」
「何でもありません!」
彼はそう言うと、俺からぷいっと目を背けた。それは、俺たちが劇場外で言葉を交わした最初の瞬間だった。
笑顔でそのことを話すと、相方は「ほんま阿呆やな」とため息をついていたが、そんなことはお構いなしだった。彼とラーメン屋で少し世間話ができるようになっただけで、俺は喜んでいた。何気ない会話の中で、少しずつ大樹は自分のことを話してくれるようになった。ラーメン好きなこと、コールセンターで働いていること、実家は田舎のキャベツ農家で、大学を卒業してから単身で上阪してきたこと。バイトの合間の短い時間ではあったが、気づけば大樹と話すことを心待ちにしていた。府内のラーメン屋に一緒に行こうと半年ほど誘い続けると、しぶっていた大樹は折れて、初めてプライベートで2人で会うことになった。待ち合わせ場所に大樹がサングラスにマスク、黒っぽい服装と怪しさMAXの風貌で現れた時は腹がよじれるほど笑った。彼は「週刊誌に張り込まれるから」と言って聞かない。駆け出しの芸人が張込みされるわけがないと説得しても全く折れないので、その頑固さにも俺はまた笑った。
「俺なんかより、大樹の方がおもろいんちゃう」
そう言うと、彼は唇を引き結び、大きく首を横に振ってから、力強く言った。
「大学卒業して、なんとなく大阪に来たはいいけど、全然仕事がうまくいかなくて。落ち込んでいた時、たまたま見つけた富士山ドラゴンズの漫才の動画に、すごく元気をもらったんです。だから2人は僕にとって世界で一番おもしろいんです」
真っ赤な顔で懸命に伝えてくる大樹を見て、俺は思わずつぶやいた。
「…かわいい」
そう言うと、彼はゆでだこみたいに真っ赤になって、また、ぷいっ、と目をそらした。
「本気で言ってるのに。…悠太郎さんのあほ」
「あほちゃうし!!」
くだらないことで笑いあいながら、俺は木漏れ日に包まれたような優しい幸せを感じていた。
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