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 * * *  プロフェッサーに部屋の本を探してきてくれと言われたり、おやつを取って来いと言われたり、一緒に食えと言われたりしているうちに時間は過ぎて行き、鹿野僧師に読んでおくようにと言われた本は数日経っても置いたままだった。鹿野僧師の助手じゃなくて、プロフェッサーの助手になったみたいだとロクが愚痴を言うと、プロフェッサーKは時間は作るものだと納得のいかないことを言った。ロクはムッとして、だったらそうしようと思い、プロフェッサーにコーヒーに入れる砂糖がないから持って来いと言われて、調理場に行かずに自分の部屋に戻って本を取り、中庭に出て読んだ。  プロフェッサーが怒るのはわかっていたが、ロクにだって都合がある。だいたい、ロクは怒られることなんて平気だった。怒っている人間が殴ってこない限り、ロクは怒声を降り注ぐ雷みたいにじっと耐えるものだと思っていた。  天気の良い日だった。雪は溶け、もう息は白くならず、日が差し込むところに座っていれば暖かいほどだ。それでも時折、寒気を孕んだ風は吹く。しかし中庭はその構造上、城の建物に空気の動きが阻まれ、風の通り道を避ければそれほど寒くはない。  中庭から外庭に抜ける方に目をやると、庭師たちが台車で荷物を運んで行くところだった。花壇の花を植え替えるのかもしれない。それ以外に庭に出ているものはなく、ロクは本に目を落として文字に目を落とした。ラテン語の本だ。鹿野僧師は昔の物事が好きだから、古い言葉も好きだ。古い物事を知れば新しい出来事はたいてい解決できると言う。自分はもう目が弱くなってきたので、ロクに資料や本を下読みさせて概要を伝えろと言う。酷い話だとロクは思う。しかし仕事がないよりはマシだ。  ホークに相談したのは失敗だった。ロクの頭は文章を外れて違うことを考える。あれからリリとはケンカしてしまった。リリがロクは自分のことを好きじゃないのかと聞いてきたので、ロクは思わずわからないと答えてしまった。失言だった。ホークに相談しなければ、好きだと言えたのに。  でもホークに責任をなすり付けるのも間違いだとわかっている。自分が悪い。  ロクは目線を上げ、中庭の木を見つめた。杉が羨ましいと思ったことを思い出す。そして雪の中に響く銃声と殺人の記憶がフラッシュバックしてロクは首を振った。違うことを考えよう。ラテン語とか。  胸の携帯電話が鳴る。ロクは取り出して相手を見た。プロフェッサーだ。無視するわけにもいかないので、出る。プロフェッサーはサトウキビ畑まで砂糖を取りに行っているのかと聞いた。だからロクはそうです、でも途中で迷子になってしまいましたと答えた。プロフェッサーは笑った。気をつけて帰ってくるようにと言われた。  ロクは電話を切り、ため息をついた。このまま本を読んでいてもいいという意味だろうか。  また本に目を落とし、しばらく読んでいると、向こうから蹄の音が聞こえて来た。ロクが目を上げると、馬に乗ったタイガが近づいて来ていた。当然三人の護衛官も馬に乗って追ってくる。どうやら護衛官の指示をタイガが無視しているようだ。  明らかに自分を見ているタイガに気づき、ロクは驚いて立ち上がり、本を取り落とした。それを慌てて拾い上げ、膝をついて頭を下げる。もう王子ではない。自分も影ではない。国王陛下とただの使用人だ。身分は以前よりも開いた。言葉を交わすとか顔を拝見するとか、そんな希望が出せるわけもなく、ロクは式典や公務でのタイガを遠くからチラリと見るだけで満足してきた。 「陛下、お待ち下さい」  国王の護衛長の仲西が馬を寄せる。 「ロク、久しぶりだな。もう退院してたのか。退院したら連絡がくると思っていたのに、ちっとも知らなかった。顔を上げろ。顔が見たい」  タイガは護衛長の言葉などまったく無視して馬上から声をかけた。  三人の護衛官のうちの一人はホークだった。王子の護衛からそのまま引き継いだ格好になる。仲西は元々、前国王の護衛長で、もう一人は一番若手になる久松だ。久松も王子時代から引き続いて国王警護に選ばれた。国王も気が知れている護衛官たちの方がいいと喜んだらしい。  ロクはほんの少しだけ顔を上げた。馬しか見えない。 「困った奴だな」タイガが馬から下りた。ロクは顔を再び下に向けた。仲西はホークよりも怖いらしい。ここで銃殺されるのは嫌だ。せめてリリに謝ってからじゃないと。  タイガはひょいとロクの横に座り、ロクの顔を下から覗き込んで来た。ロクは飛び上がりかけた。  タイガは笑った。「噂に違わぬツギハギ顔だな。それが恥ずかしくて伏せてるのか? ほら、立て。久松、馬を貸してくれ。ロクと一周してきたい」  そう言われた久松は顔を青くした。仲西とホークは顔を見合わせ、ため息をついた。 「陛下、この男はまだ馬に乗れるほど回復していません」  ホークが言うと、タイガは首をひねった。「そうなのか。じゃぁ仕方ないな。ロク、話をしよう。口は縫ってないんだろう?」  ロクはどうしたら良いかわからず、地面を睨んでいた。話って。何も話すことなどない。元気ですか、元気だ。それでいい。充分だ。そしてそれぐらいのことは、遠くで見ていればわかる。 「護衛官がいるから怖がってるんだな? おい、仲西、下がれ。この男が危険でないことぐらい知ってるだろう?」 「いやしかし…」 「下がれと言っている。聞こえないのか」  シッシとタイガが護衛官を数メートル下がらせ、ロクは唇を噛んだ。 「ロク、立て」  タイガが立ち上がって言った。ロクは目を閉じ、唾を飲む。 「ロク、立ってくれ」  腕を引っ張られ、ロクは仕方なく立ち上がった。これ以上の抵抗は無理だ。  立つと二人の身長はほぼ同じなので、俯いている分だけロクの視線が下がる。タイガは覗き込んで来なかった。その代わり、両手を広げてガシッと抱きしめられた。  ロクは驚いてタイガを見た。タイガの顔は自分の隣にあり、それからすぐに体は離れた。 「良かった、実体だな。幽霊かと思った」タイガは笑って言った。「おまえが影でいてくれないのは残念だ。顔の傷なんてメイクで何とでもなろうに。キバは頑固でな。ダメだって言う。影は王の友達ではありませんって言うんだ。私にも友達は必要だと言ったら、何と言ったと思う? 影以外でお探しくださいって」  タイガはそう言ってさらに笑った。  ロクは恐る恐るタイガを見た。国王になったタイガは明るくなった気がした。以前は楽しいときは笑ったが、ロクが王位についてほのめかしたり将来についての話題が出ると必ず憂鬱な顔になった。それがなくなった分、元来の明るさが前面に出ているようでロクも嬉しくなる。 「つまり、おまえは影じゃないから友達になってもいいっていう意味なんだよ。わかるだろう?」  タイガが言って、ロクは眉間にしわを寄せた。キバがそんなことを言うとは思えない。 「公私の分別のつく、高等教育を受けた者なら許可するって。だから私が聞いてやったんだ、例えば怪我をして影を落とされた奴はどうなんだって。キバはしかめっ面のままで、向こうがどう思っているか不明です、友達というのは一方的になる関係ではありませんとさ。ロク、おまえだって私と友達になりたいと思ってるよな?」  ロクはやっとタイガを真っ直ぐに見られるようになった。そして首を振る。  タイガは真顔になってロクを睨んだ。「どうして」 「なりたいとは思ってません。一方的に私はずっと前から友達だと思ってたので…」  ロクが言い終わる前に、タイガの顔が綻んで、さらにもう一度力強く抱きしめられた。 「最高だ、おまえ」  ロクは空を見て、息を吐いた。こうなるとわかっていたら、影を下ろされることも喜べた。  タイガは離れ、照れるようにロクを見た。その手にある本に視線を止める。 「何を読んでたんだ?」  ロクは自分が持っている本を見た。 「鹿野僧師からの宿題で、ラテン語の本です」 「面白いか?」 「よく眠れそうです」  タイガは笑った。「敬語はやめないか? 友達なら」  ロクはタイガを見て、それから渋い顔をしている護衛官たちを見た。「向こうの視線が怖くて」  タイガは護衛官を振り返って、それからまたロクを見た。「気にするな。そうだ。これを渡そうと思って退院を待ってたんだ」  タイガは自分の首にかかっていたチェーンを外した。銀の筒がついている。 「それは…」ロクは目を丸くした。 「何も言うな。これをもっと早く受け取っていれば良かった。これを持っているとな、まるでおまえが近くにいるみたいに感じるんだ。何かに怯えそうなとき、おまえが叱咤してくれている気がするんだ。それで勇気が出る。おまえはどうだった、これを持って逃げている間。俺を思わなかったか?」  タイガに言われ、ロクは苦笑いをした。「思いました」 「だろ。だからこれはきっと、そういうモノなんだ。父上は私とおまえに教えたかったのだ。見えないつながりみたいなものを。忘れないようにしようと思うけど、人はふとした時に忘れてしまう。だからこうする」  タイガはチェーンから銀の筒を取り外した。 「どっちがいい?」  いたずらっ子のように片方ずつの手にそれぞれを乗せたタイガが聞く。ロクはそれをじっと見た。 「鍵は国王が」  ロクはそう言ってチェーンを受け取った。 「いいだろう」タイガは銀の筒を自分のポケットにしまった。「なくすなよ」 「そっちこそ」  ロクが言うと、タイガは嬉しそうにした。 「おまえがいない間、私も少しは考えたのだ。おまえが強いのは生まれつきだと思っていた。でもそうじゃないと倉地にも言われた。母上にも言われた。キバでさえそう言った。人は見えている部分だけでできているわけじゃない。見えない過去もたくさんある。むしろ強い人間はたいていとても辛い経験をしているものだ。友達とは、そういうことも含めて認め合うことだと。おまえは私の弱いところも嫌わなかった。私だってそうする。おまえが過去に何を経験したとしても、今は私の大切な友だ。もし辛い経験がおまえを強くしたなら、私はそのおまえの辛い経験も愛せる」  ロクはタイガから目を伏せ、唇を噛んだ。  ホークはロクが拒むのかと思った。自分から逃げたときみたいに逃げるのかと。しかしロクは顔を上げた。そして数メートル離れているだけの護衛官にも聞き取れないほどの声で「ありがとう」と言った。  タイガは照れ笑いをした。ロクが真面目に受け取ってくれたからだ。少しは冗談めかすかと思っていたので、予想外だった。 「早く馬に乗れるようになれ。一緒に回ろう。障害の練習だって始めたんだ。おまえが復帰する前に、追いつけないほど引き離しておいてやるからな」  タイガはそう言って、軽やかに馬に乗った。  ロクはそれを見上げた。青い空にタイガの笑顔が見える。 「すぐに追いつきますよ」  ロクが言うと、タイガはニッと笑った。「待ってる」  護衛官たちが近づいてくる。ロクは馬から下がった。  タイガが外庭の方へ歩き出し、護衛官たちも付いて行く。ロクはそれを見送りながら、ホークと目を合わせた。ホークは黙ってチラリと見ただけだったが、前に向き直った時には少し笑っていた。  心配させてゴメン。ロクはホークの背中に言った。
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