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 * * *  午前中は仮眠に当てる許可が出ていたのでぐっすり眠った。腕時計のアラームで目が覚めると、マサトは仕事に出掛けたようでおらず、ロクはシャワーを浴びて作業服に着替えると、寮棟を出て主塔の方へ行った。  ロクの今の役目は『王子の影』だ。  玄国の王子には『影』が三人いる。『影』の候補者は幼い頃にピックアップされる。同じ年齢であること。同じ血液型であること。同じような骨格を持ち、同じような顔立ちであること。そういった子どもが学校や寄宿舎でリストに入れられる。そこから経過観察し、性格や学業に問題のない者を十歳頃に何人か城に上げる。ロクの時は十人いた。ロクは前から六番目だったから『ロク』と呼ばれた。だいたい寄宿舎での名前だって番号だった。孤児が多すぎて名前をつけきれなかったのだろう。ロクは五十九番目の子どもで、ゴクと呼ばれていた。ゴクがロクになったところで、それほど違和感はなかった。王子の遊び相手をしながら、王子と同じような教育を受けた。集団で受けることもあれば、個別の教師がつくこともあった。  十五歳までにふるいがかけられ、十人のうち残ったのは三人だった。改めてロクは『三番目の影』という称号をもらうが、既にマサトはロクと呼んでいたし、その他の何人かもロクと呼んでいた。ロクベェとか、ロックとか、ロクスケと呼ぶ者もいた。彼らは呼び名を変更するのを面倒がった。しかし三人になってからロクを知った人たちは、ロクを『サン』と呼んだ。ただ単に『三番目』と呼ぶ者もいれば、『おまけ』と揶揄する者もいた。呼び名なんて何でも良かった。ちなみに王子はマサトと同じくロクと呼ぶ。  残りの影二人は名前で呼ばれることも多い。一人は王子のいとこで響希(ひびき)という。もう一人は内務大臣の息子で弘大という。どちらも王子とは生まれた瞬間から知り合いだということで名前が通っている。ロクは自分だけが身元のはっきりしない子どもであることを認識していたし、王子ともそれほど似ていないと思っていた。確かに背格好は似ているかもしれないが、顔立ちは成長するにつれ違いが目立ってきたし、当然のように王子のいとこである響希の方がはるかに似ていた。響希は少し気弱なところはあったが、抜群に頭が良かった。そして弘大は頭の切れこそそこそこだったが、腕っ節が強かった。どちらも影として、あるいは表に出て参謀や用心棒として役立ちそうだった。ロクはその点ではどうにもならなかった。勝てるのは、きっと存在感を消すことぐらいだろうと思った。 『影』の毎日は、当然王子と同じようなことを求められる。いざというとき、王子の代わりに危険を引き受けなければならないのだから、偽物とすぐにバレては意味がない。王子と同じ水準の知識を持ち、王子と同じレベルの運動神経をつけ、王子の立ち居振る舞いをしっかりとマスターしなければいけない。王子より優れすぎても劣りすぎてもいけない。これが本当に難しい。ロクはそのために歩く早さを練習させられ、ピアノやバイオリンを習わされ、癖も徹底的に直された。そして王子の癖を刻み込まれた。字の形も矯正され、くしゃみの仕方一つにも緊張させられた。  嫌になったことは何度もある。脱走だって企てた。が、マサトが逃がさなかった。さすが元王妃の護衛官である。スキがなかった。逃げても怒られなかったが、引き戻されて淡々と同じ教育を続けられた。そのうちに逃げる意欲が失われた。自分はここで生きていくのだと悟った。諦めがつくと、せめて王子の影であることに、誇りを持ちたいと思った。他の二人の影が何を思っているのか、ロクもわからない。二人は親にうまくやっていると褒められて嬉しそうだったし、それでますますやる気になっているようだった。ロクもマサトが褒めてくれたらやる気になるのにと愚痴ったことがあるが、マサトは冷たい目で見て笑っただけだった。今ではそれもわかる。マサトはロクがふるいに落ちればいいことを知っていたのだ。ロクはできないふりをすれば良かったのだ。ただし、城を出たとしてもロクには帰る場所もない。孤児のための寄宿舎は十五歳までで、そこから先は自分で仕事を見つけなければいけなかった。寄宿舎にいれば職業教育も仕事紹介もあるが、城から放り出されたロクに何ができるでもなかった。だから全てを含めてマサトは笑ったのだ。他に道はないということを知らせるために。  それでも慣れれば城の暮らしも悪くなかった。ロクは寄宿舎では受けきれないほどの教育を受けたし、街では絶対に食べられない高価なものを食べた。病気になれば医者にかかることができ、誰にも何かを取られることはなかった。影として自分自身を失うことはあっても、幼い間に身の危険は感じた事がなかった。それが影として城に来たことの特権だとマサトが大きくなってから教えてくれた。求めるだけの教育を受けることができるのは、最高の贅沢だと言った。  十五から成人となる十八までの間に、ほぼ『影』たちは王子の癖をマスターしていた。王子の成人の儀が終わった後、影は会議室に集められて通達を受けた。今後も影は定期的に王子と会い、考え方や言葉の癖などをしっかりと身につけておく。が、同時に影は王子に一番近く、そしていざとなるとその命を賭して王子という象徴を守る必要がある。そのために今日、ここで誓いを立ててほしいと『影』養成の総括官であるキバは言った。ロクには誓いというのが何だかわからなかった。他の影の二人は家で聞いて知っていたらしい。  そこで初めて、ブレスレット型のIDチェッカーをつけた。手に当たっても不都合がないよう滑らかに磨き込まれた合金の手枷はよく光っていた。カチャリと手首につけられたIDブレスは、手首を切る以外に二度と外せないようになっているらしかった。ID情報の他に、発信器もついていて影の位置情報がわかるようになっている。もう一つブレスレットには仕組みがあった。リモコンでいつでも爆破できるということだった。ロクにはその仕組みはわからない。ただ、デモンストレーションでキバが会議室に防護ガラスケースを運んで爆破して見せたときには驚いた。中にあったマネキンは木っ端みじんになっており、ロクはそれが自分であるかのように思えて震えた。何かの拍子に誤爆することはないのかとキバに聞いたら、キバは心配するなと言った。誤爆した瞬間にはおまえはこの世にいない、と。そういう問題じゃなくて。ロクは食い下がったが相手にしてもらえなかった。要するに逃げずに仕事をまっとうすれば自爆させられることもなく、王子の代わりに死ぬ事もない。そのために日々精進しろというのがキバからの命令だった。  四年が過ぎたが、今でもふと右手が爆発する夢は見る。半年に一度のシステムチェックはあるが、その日でさえ怖い。下手に触って爆発しそうだからだ。ロクが他の影にそう思わないかと言ったら、気の強い弘大には笑われた。頭のいい響希にはシステムについて教えてもらったが理解もできなかったし仕組みがわかったからといって不安はなくならなかった。少しだけ気持ちが楽になったのは、王妃の護衛官をしていたマサトの手首にもそれがついていることだった。護衛官の中でも王族に直接会うような立場の人間には全てつけられているようだった。マサトは自分のは旧式だから自爆装置はついてないと笑ったが、ロクにとってはマサトのブレスレットも故障したことがないのだから、自分のもそうであろうと根拠のない思いを固めたのだった。  主塔に入ると、当然ながらチェックが入る。IDチェックはもちろん、ゲートごとに門番や扉番がいて顔を直接チェックする。ロクは王族でも大臣の子でもないので、王子の影という要職だというのに軽んじられて番人たちにからかわれる。何をからかわれるのかというと、もう十二年も前に王子としたケンカについてだ。王子のわがままにつきあいかねて、ロクが王子に殴りかかったことがあった。ロクはその場で首をはねられても頭を撃たれてもおかしくなかったが、王子がキバを止めた。自分がロクに殴れと命じたのだと。明らかな嘘だったが、キバも王子には逆らえずにロクを放した。もちろんその夜に涙が枯れるほどキバの恐ろしい叱責を受けたが命だけは助かった。 「六番、今日は殿下に殴りかかるんじゃないぞ」  城でやることもないのか、番人たちはそうやって下の者をからかっては暇をつぶす。殴りかかったのは一回だけで、しかも拳は王子に当たらなかった。それでもこうも長い間言われるということは、自分は相当悪いことをしたらしいと今になってロクは自覚する。子ども同士のケンカじゃないか。何が悪い。  王子の間の前には、その恐ろしい顔のキバが待っていた。戦争でついたらしい傷が怖い顔をますます厳しくしている。  キバはロクを見ると上から下までチェックする。髪は乱れていないか、髭は剃っているか、白いシャツに汚れはないか、土色の作業着のボタンは留まっているか、ベルトはしっかり締められているか、靴下はたるんでいないか、靴は磨かれているか。そしてロクが太ったり痩せたりしていないか。  後ろ姿までチェックされ、ロクは緊張する。キバはロクの背後に立ち、後頭部の髪を引っ張った。 「寝癖がついてる」 「申し訳ありません」それ以外の応答は許可されていない。 「王子の予定が遅れてる。面会予定は十五分後になった。ここで待て」  キバが言い、ロクは王子の部屋の前の廊下で立ち尽くす。三メートルほどの幅の廊下を挟んで、ロクは右手の壁に寄って立ち、キバは左手の壁に沿うように立っている。そしてロクをじっと見ている。  ロクはキバを見ないようにした。正面の王子の間の扉のデザインをじっと見つめた。鳳凰が飛び立つ姿が彫り込まれた重い木製のドアだ。木製だが中央に鉄が挟んであり、襲撃があればちゃんと王子を守るようにもなっている。  五分ほど沈黙の時間が流れた。ロクには時計を見るために左腕を動かすこともたぶん許されていない。キバが見ているということは直立不動で待てということに違いないから。だから正確には何分経ったのかわからない。息がつまるほどの時間だったことは確かだ。遠くで人の声や物音が聞こえていたが、ここではないどこか別世界の音のような気がした。 「三」  キバが言った時、ロクは名前を呼ばれたと気づくまでに数秒を要した。キバは他の影のことも番号で呼ぶ。一が響希で、二が弘大だ。そして三がロク。 「はい」立ち位置を九十度回転させて、キバの正面を向く。反応が遅いと怒られるのではないかと思ったが、キバはいつもの心を見透かすぞという気迫のこもった目で見ているだけだった。モジャッとした灰色の髪の間から鋭い目が光る。キバのくせ毛は寝癖どころの話ではない。それなのに他人の乱れにはとても厳しい。 「王子はおまえのどこを気に入ったのだ」  質問だか読み上げなのかわからない口調でキバは言う。ロクは戸惑い、キバをじっと見返す。 「わしはおまえが気に入らん」 「はい」それは城に上がった日から痛感している。そして「おまえは気に入らん」という台詞は過去に何度も聞いてきた。それだけ嫌いだと言われたら、こっちも嫌いになる。ただ立場が弱いから従っているだけで。ロクはそんな気持ちは奥の方にしまって、キバの足元を見る。目を見ると自分が傷つきそうだからだ。 「三」  また呼ばれる。ロクは目を上げた。「はい」 「その卑しい孤児の目は何とかならんのか。仮にも王子の影だぞ。高貴な空気を纏えというのは無理だとしても、せめて瞳に偽りでも良いから笑みを浮かべろ」  キバはまた難しいことを言う。これも十歳の時から言われ続けている。 「そのように努めます」ロクの答えも同じ。 「影は王子の代理ぞ。王子の話相手をしていれば良いのではない。一のような聡明さも、二のような豪腕も持たぬおまえが影としてあるためには、せめて王子に似る努力をせんか」 「はい」 「おまえは最近、何かをはき違えておる。王子の考え方を理解し、王子のするであろう行動を取ることが影の本来の姿であろう。王子とライバルになってどうする」 「申し訳ありません」  ロクは目線を下げる。キバは知っているのだ。ロクが王子とカードゲームをしたり、ちょっとしたサッカーのまねごとをしたり、二人でどちらが先にプロフェッサーの出した問題を解けるかを競ったりしていることを。王子とロクだけの間での話なのに、どこから漏れたのだろう。あるいは王子がこのところ機嫌が良くなったのでキバが探ったのか。どちらにせよ、昔からキバは王子に釘を刺している。六(当時は六だった)は影候補であり、付き人でも遊び相手でもない。本気でケンカをするための相手ではない。それなのにロクと王子はその後ケンカをして、ロクがキバに完全に嫌われることになる。 「国王が体調を崩し、王子が不安になっているのは誰もが知るところ。おまえの役目は王子の気持ちを上げることではない。王子と同じように不安を感じ、迷い、王子の気持ちに我を重ねることであろう」  ロクは床を見た。「はい」  だができそうにない。これはきっと性格の問題だ。ロクは自分が王子の立場なら、不安を隠して国王に安心してくれと伝える。王にはゆっくり休養していただき、国務のいくつかは自分がこなせるものからこなす。全ては無理でも、できることをするしかないだろう。自分はまだ覚悟ができていないのだと泣きつく王子を見ていると腹が立つ。そう感じることもキバは許さない。 「三」  ロクはキバを見上げた。「はい」返事に力が入らない。 「おまえは影で、王子ではない」 「それは理解して…」 「理解しとらん」キバがよく響く太く強い声で恫喝したので、ロクは思わず半歩後ろに下がった。そこは壁だったので壁に背中をついた。キバが靴音を立てて近づく。ロクは思わず顔を背けた。その頬にキバのお得意の短剣が吸い付く。ロクは頭を壁に強くつけ、短剣から逃れようとしたがキバが許すはずもない。 「影は王子と同じ立場ではない。影は王子あってこその影。影が乗っ取ることは許さん。影が王子を誘導することも許さん。影は常に王子の後から寄り添う者。対等でさえない。競う相手ではない。踏みつけられる者だ。それを光栄と思い、そこに生きる者だ。わかったか」 「はい」ロクは目を閉じ、ナイフが首筋から離れるのを感じて息をついた。キバは影を傷つけない。王子との違いが出ては困るからだ。だが影を消すことはできる。キバがナイフを向けたら、そこには殺すか何もしないかしかない。そしてその境界がロクにはよくわからない。キバが今まで何人か消してきたのを見た事がある。キバの表情にも声にも変化はなかった。殺した後もいつも通りだ。掃除しておけと部下に命じるだけ。次に王子に拳を向けたら、おまえもこうだと十歳のロクは言われた。キバが撃った相手の血がロクの体にも顔にもかかっていて、ロクはしばらく精神的に不安定になった。マサトがいなかったら、きっと立ち直れなかった。 「立て」と言われて、膝をついていることに気づいた。  ロクは壁に手をついて立った。 「腰抜けが」  キバが吐き捨てるように言う。ロクは黙ってそれを甘受する。  王子ならきっと泣いているだろう。俺も泣いていいのかと考える。しかし涙は出ない。恐怖は感じるが、許してくれと甘えることはロクの中にない。これがキバの怒る原因かもしれないと思う。響希はよく似ている。顔もそうだが、そのちょっと気弱な辺りが。弘大とロクは弱くなれない。それでも弘大は武術に長け、いざとなったときに王子を守れる技術を持っている。ロクにはそれがない。マサトに習いはしたが、幼い頃から学んでいたわけでもなければ、城に来てからは王子と同じ教育に加え、王子に似るための学習や訓練もあって、そうそう時間も取れない。ゼロ歳から相手を見て真似をしろと教わっていた響希たちに比べ、十歳になって初めて出会ったロクと王子が、そうそう簡単に似るわけもなかった。それでも他から子どもを入れるのは、捨て駒用だと聞いた事がある。人質になったときなどに、切り捨てるためだ。王族の響希や、大臣の息子は簡単に捨てられないが、身寄りのない子どもなら捨てられる。そのためにおまえがいるとマサトは言っていた。ロクもそれは正しい気がする。 「姿勢を正せ」  言われなくても正している。それでもロクは「はい」と答えた。情けないとか不条理だとか、そういう感情はずっと奥にしまう。何度か逃げ出してマサトに捕まったとき、マサトは言った。おまえ自身がおまえを捨てるな。他人に捨てられても自分が自分を捨てなければ道はある。 「三」  キバが呼び、ロクは目を上げた。 「王子が戻られた。中庭でお待ちだ。急げ」  そう言ってキバは先に立って歩く。ロクはキバに遅れないように、しかし王子の歩幅を意識しながら歩いた。
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