3/7
前へ
/106ページ
次へ
 * * *  月に一度の城下の視察を終えた王子は、ロクを見ると顔をほころばせた。ロクはキバが隣にいるので表情を消して礼をした。友達になるなというお達しだ。 「三、わかっているな」と念を押してキバは下がった。  王子は三人の護衛官以外の人払いをして、ロクをそばに呼んだ。ロクが外套を着てきていないのを見て、中庭の向こうにある温室にロクを誘った。ロクが断るわけもない。  温室はこじんまりしたものだが、王妃の好きな蘭がたくさん咲いている。王子の妹君である姫の趣味のサボテンも少し置かれている。姫は外遊が大好きで、あちこちに行ってはいろんなものを持ち帰る。サボテンもそのうちの一つだった。ロクが姫に言われて鉢を移動しようとして棘に刺されると、姫は楽しそうに笑っていた。 「ロク、キバに何か言われたのか」  王子は気持ちは弱いが、敏感で優しい。ロクはふと力を抜いて、本当のことを全て言ってしまいそうになる。この包容力のようなものは、きっと生まれつきのものだろう。王になるべくして得た力とも言える。ロクは王子を導こうと思ったことはない。乗っ取ろうと思ったこともない。無邪気な優しさに甘えたくなるだけだ。その優しさを少しだけ広げたら、きっと王子は素晴らしい王になるだろうと思う。 「いえ。寝癖を注意されただけです」  ロクは後頭部の髪を触った。王子が首を回してそれを見て笑う。「本当だ、はねてる」  屈託のない笑顔に、ロクの緊張も少し緩む。王子は変わらない。それが今は救いだった。  二人は温室の中央にある小さな噴水の脇のベンチに座った。護衛官たちは数メートルおきに散らばって立つ。 「今日は市場を見てきた。ロク、市場に行ったことあるか?」  ロクは少し考える。「城に上がる前に行ったことがある気もしますけど…あまり覚えていません」 「そうか」王子は顔を輝かせる。王子はロクに街のことを教えるのが大好きだった。他の影は王子よりも街のことをよく知っていることが多い。他の二人は今でも許可をもらえば護衛つきで車で外出できる。ロクは行きたい場所もなく、会いたい人もいないので城にいる。一度だけ許可を取ろうとしてみたが、行き先を明確にしろと言われて断念した。街をぶらぶら歩きたいというのは許可されないようだった。  王子は市場がどんなふうだったか身振り手振りを交えて興奮気味に話した。混雑した細い道、野菜や果物の量り売り、カラフルな見たことのないお菓子、かごが並んだ軒先、威勢の良い呼び込みの声、屋台で焼いている鶏肉の香ばしい香り。からんからんと鳴るベルに、店子と客の応酬、コインのやりとり。全てが王子の目を輝かせることばかりだった。 「ロク、土産があるんだ」王子はポケットから穴のあいた小さな丸いコインを出した。「これで飴が一袋買えるんだそうだ。ロクが市場に行くことがあれば、買うといい。私は買った。オレンジの味のものだ。毒見は済ませてある。食べるか?」  王子はロクの手にコインとオレンジ色の粒を一つ置いた。そして自分も一つを口に入れた。  ロクもオレンジの飴を口に入れた。なぜだか涙が落ちそうになった。 「父上にも滋養に良いという茶を買った。少しでも良くなってくれればいいのだが」  ロクは王子の横顔を見た。不安に寄り添え。共感し、そして同じように胸を痛めろとキバは言う。胸は痛んでる。ロクは思う。胸は同じように痛む。王子の気持ちは痛いほどわかる。わかってる。 「ロク、この前のプロフェッサーの問題は難しかったな。二人で同じところを間違ったのは笑ったな」  王子が言って、ロクも笑う。「そうですね」  キバはロクを気に入らないようだが、ロクは時々、王子と本当にシンクロする。同時に同じ話題を切り出したり、音楽鑑賞をして気に入った曲が一緒だったり。もちろん他の二人の影とも王子はシンクロするので、その頻度に比べたらロクはまだまだ少ないかもしれない。それでも不意に王子が唄いはじめた鼻歌が、今まさに自分の頭の中で鳴っていたりすると、とても驚く。もう十二年も一緒にいるのだ。多少は嫌でも似てくる。  ロクは最初に王子とケンカをしかけたときから、王子に似ようと努力したことはなかった。最初の数ヶ月はロクは王子を嫌っていた。わがままで気が弱くて何でも人のせいにする王子を、ロクは心の中で非難した。口に出すとキバに殺されるから黙っていた。癖を覚えさせられるのは、それをしないとキバが怖いから従っただけだった。それでも一緒にいると、気持ちが知れてくる。王子のわがままが自信のなさの裏返しだとわかったり、気弱さも克服したいと思っていることを知ると、ロクも気持ちを溶かした。次第に王子を援助したいと思うようになっていった。そして王子もロクの態度の軟化に敏感に気づき、声をかけるようになった。そしてロクは王子の底のない優しさに触れた。それはロクにはないものだった。 「ロク、今、市場で一番売れている『綿あめ』という菓子を知っているか?」  また王子が言った。 「いいえ」とロクが言うと、王子は嬉しそうにロクを見た。 「雲みたいでな、甘いんだ」 「甘い雲ですか?」ロクは首をひねった。 「そうだ。甘い雲、食べてみたいだろう? それもそのコインで一つ買えるそうだ」  ロクは手の中のコインを見た。金と呼べるものを自分の手にしたのは初めてだった。 「これ、私がいただいていいのですか?」 「そうだ。何とでも交換できるのだ。温かいココアとも交換できる。金というのはそういうものだ。ロク、おまえも影ならもうちょっと経験を積まないとな。最近は私が経験値を抜いてきているぞ」  王子は嬉しそうだ。以前は街での暮らしを知り、マサトに掃除洗濯などの家事を教わっているロクの方がいろいろ知っていたのだが、外遊や街の視察が増えてくるとロクは王子に勝てなくなっていた。  ロクはコインをじっと見つめ、甘い雲をマサトは喜ぶだろうかと考えた。マサトは菓子に興味はないだろう。きっとオレンジの飴も喜ばない。煙草一本でも買えた方が喜びそうだ。煙草はコイン一つで買えるものなのかわからない。それでもコインは嬉しかった。 「ロクは私と同じだな、ほとんど城を出たことがないから街のことはよく知らない。今までは城の中の秘密はロクが教えてくれていたが、これからは私が街のことをロクに教えてやろう。影は私と同じでないといけないんだからな」  王子はそう言いながらも、自分と相手との違いを楽しんでいた。  最初はまったく違う二人だった。姿形こそ似ていても、性格も知識も違った。寄宿舎で勉強をしていたといっても、城で早期教育を受けていた王子にはロクは適わなかった。その代わり、寄宿舎で揉まれて育ったことで、人間関係の作り方はロクの方がよくわかっていた。寄宿舎では王子のような奴は集団では排除されるのが道理だった。だからロクは王子を殴ろうとしたのだ。が、城では王子が優先される。それをキバに思い知らされ、ロクは萎縮した。王子は王子で、自分に歯向かう者などいなかったので驚いた。どちらにもカルチャーショックがあり、どちらもそのことで世界を知った。違う世界を知るのは怖かったが、同時に面白いと二人はそれぞれに感じたのだ。  それなのに。  ロクはキバのナイフの冷たさを思い出しながら、息をついた。キバに殺されることを思うと、胸に浮かんだ言葉がどんどん消えて行く。王子にかける言葉がない。 「やはりキバに何か言われたんだな、負けず嫌いなロクがこんなに喋らないのは珍しい」  王子が言って、ロクは彼を見た。王子は顔立ちからして優しい。キバが言うには、それは育ちの良さであり、ロクには一生手に入れられないものらしい。そうかもしれないとロクは思う。笑えと言われても笑えないのがロクであり、悲しくても笑えるのが王子だ。 「キバがロクを嫌ってるのは、ロクが優秀だからだ。ロクは私とよく似ている。何と言うのか…」王子は少し考えた。「顔や姿ではなく、考えることが似ている。ただ、私は何かを思いついても留まってしまう。ロクは実行する。それが私たちの違いだ。ロクは実行力はあるが、慎重さに欠けると思う。私は慎重すぎて実行することができない。二人の間を取れば、きっとうまくいく」  ロクは黙ってコインを握った自分の拳を見た。「私も怖じ気づくことはよくあります」 「ロクが?」王子は目を見開いた。「ロクは弘大よりも勇気があると思うぞ」 「弘大さんには適いません。あの方はマサトも褒めてました。私なんて睨まれただけで負けます」 「マサトが」王子は納得するようにうなずいた。「弘大は影なんてやめて武人になるべきだな」 「影には王子を守る役目もあるので、弘大さんは適任かと」 「そうか。そう言われたら、それもそうだな。響希は天才だしな。こうやって考えると、私もおまえも凡人だな」  王子が笑うので、ロクは苦笑いする。「私はそうですけど、王子は違いますよ。何たって王子ですし」  王子はロクの言葉に顔を曇らせる。「たまたまそこに生まれただけだ」 「王子は…」ロクが言いかけたとき、王子が声を落とした。「ロク、タイガって呼んでくれ。子どもの時みたいに」 「それは」ロクは首を振った。「私が殺されちゃいます」 「それは困る」王子は顔をしかめた。「でも誰も聞いてないぞ」 「嫌ですよ」 「命令でもか?」王子が言って、ロクはしばし困惑した。命令違反も、王子への不敬罪も、どちらもキバのナイフ一振り、引き金一引き。 「冗談だ」王子は息をついてベンチにもたれた。「困らせて申し訳ない」 「いえ、こちらこそ…」ロクは頭を下げた。どうしたらいいかわからない。 「たった一人の友を苦しませているようでは、父上も私に失望されるだろうな」 「そ」んなことはありませんと否定しかけて、ロクは王子を見た。ロクを「友」と言うことはキバに強く禁じられているはずだった。影を友と勘違いなされることのないよう、と毎日のように言われているはずだ。 「キバに罰せられるかな」王子は力なく笑った。「おまえも、私がキバからおまえ一人も守れないと思うだろう?」 「いえ、ですが」ロクは言葉を探す。 「そんな私が国を守れるはずもないだろう? 私は器ではないのだ」 「そんなことはありません」ロクは王子の言葉を消すように怒鳴ってしまい、護衛官がチラリと見るのを見た。汗が噴き出す。 「ロク、私は怖い」王子は声を落としてロクの方に体をわずかに向けた。「父上がいなくなるのではと思う恐怖と、その後の自分が王としてやっていけるかどうかの恐怖で苦しい」  ロクは王子の目を見つめ、そこにある自分の姿を見る。同じように自分の瞳には王子が映っているのだろう。 「私は」ロクは目を伏せた。「影です。王子と共に歩くことはできません。私は…」  王子は大きく首を振る。「違う。ロク、私はそんなことを聞きたくない」  ロクは目を上げた。「でも事実です」  王子はベンチから立ち上がり、持っていたオレンジの飴の小袋をロクに投げつけた。 「聞きたくないと言っている」  護衛官たちが目を向けた。王子は護衛長のホークを見た。「城に戻る。影はキバに返せ」 「はい」と護衛長のホークが答える。そして追加で王子に尋ねる。「彼が何か失礼をしましたか?」 「何でもない」王子は振り返りもせずに歩いて行く。  ホークは部下の一人に目配せをして、王子を追いかけた。もう一人の部下と一緒に急ぐ。  目配せを受けた護衛官の久松は、ベンチに座ったままのロクの前に立ち、ロクの腕を引き上げた。 「何を言って怒らせた?」  久松はロクを見た。ロクは飴の袋を拾うと、久松に引かれるまでもなく、自分で歩き出す。 「別に」ロクはムスッとした顔のまま歩く。 「また王子が気弱なことを言ったんだろう。おまえが励まそうとして、逆切れされたんだろ。毎度毎度、おまえもご苦労なことだな」  ロクは足を止め、久松を見返す。久松も同じ護衛官寮の住民なので気心が知れている。大人ばかりの寮では、突然やってきた子どもはみんなのペットのようなものだ。今ではロクももう大人で、若い護衛官にはロクの年下の者さえいるというのに、寮では何となくロクは最下層の扱いだ。正規の護衛官ではないことや、マサトの世話になっていることがそういう意識を生むらしい。 「恐ろしいキバさんには俺たちが何とかフォローしてやるから」  背中を叩かれて、ロクは半歩前に揺れた。 「器じゃないとか言う」ロクは久松をじっと見た。「俺に代理しろみたいなこと言うから、俺は」 「おまえは影だもんな」  ロクはうなずいた。全部言わなくても久松はわかってくれる。 「無理だって言って怒られたのか。気の毒に。王子の信頼が厚すぎるというのも辛いな」  ロクはため息をついた。久松が歩き出すので、ロクも歩く。 「しかしまぁ、これはある種のケンカだな。大人のケンカだ。王子だってもう大人だからおまえの立場もわかってる。何日かして頭が冷えたら、またおまえを呼ぶさ。おまえと王子はうまく合うパートナーだ」 「影だ」ロクは訂正する。  久松は苦笑いでうなずいた。「そうだった」  温室を出ると、北風が吹いて軽装のロクはくしゃみをし、久松が横でフッと笑った。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加