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おびただしい血がヤリクの死体の周りに広がっていて、それは惰性でまだじわじわと広がりを見せていた。ロクはそれに襲われるような気がして後ずさりするが、後ろにも額の真ん中に穴をあけた衛兵が二人倒れていて、ロクは悲鳴を上げる。思わず顔をそらして反対側を向くと、雪の上に脳みそを散らかした軍人がマシンガンを構えて笑っている。頭は上半分を吹っ飛ばされて真っ赤だ。それでも笑いながら歩いてくるから、ロクは持っている銃を向けてめったやたらに撃つ。当たってるのかどうかもわからないが、軍人は近づいてくる。そして「終わりか?」と笑ってマシンガンを連射しはじめる。
ロクは飛び起きて心臓がガンガン飛び出しそうになっているのと、肺が酸素をもっともっとと要求しているのを知る。汗がどっと出て、呼吸が乱れる。
「おい大丈夫か」とマサトに言われ、ロクは目を見開いた。深呼吸に努め、何とかパニックを避ける。
他の苦い思い出のことはあまり夢に見ないが、殺人の夢だけは何度も見る。以前はヤリクと衛兵だけだったのが、あれ以来、雪の中の軍人も参加する。登場人物はこれ以上増えなくていい。ロクは心配顔のマサトを見て、何でもない顔を作る。
マサトは何か言いそうな顔をするが、飲み込んで唇を緩めた。
「落ち着いたか。もう少ししたら王太后陛下が面会に来られるが、対応できそうか? もし疲れているようなら日をずらしてもいいし…」
「大丈夫です」ロクは顔を上げて言った。「でも王太后陛下がなんで?」
「それは私も知らん。できるだけ早く会いたいと仰られている。おまえにも心当たりはないのか?」
マサトはロクの顔を見た。この顔で会わせるのはどうかとも思う。偽尉官にボコボコに蹴飛ばされたせいで、腫れこそ引いているが痣が顔中に残っていて、切れた唇の絆創膏と、右眉の上の十センチほどの銃創は派手にガーゼが貼ってある。そのせいで右目は半開きで、口元も歪んでいる。骨が折れた鼻の上にもプラスチック板とガーゼが固定してある。ガーゼを外してあるところも、黄色や紫の傷跡が痛々しい。見方によっては醜いとも言える。
「心当たりはありませんけど…処分のことじゃないですか」
ロクが言って、マサトは腕組みをした。
「処分な…。確かに影の処分について、陛下に権限がないとは言わないけど、直接の決定権は国王陛下にある。国王陛下が一任したというなら話は別だけどな…。どちらにせよ会ってみるしかないというわけだな」
ロクはうなずいた。その表情にマサトは複雑な気持ちになる。僧師が補強したとは言え、ロクが抜け殻であることに変わりはない。聞けば答えるが、自分からは過去のことも未来のことも話さない。つまり関心がない。それはマサトにとって憂鬱の種になる。
「髭でも剃るか」
マサトはロクを見て諦めるように言った。
髭を剃り、医師にガーゼを新しくしてもらい、できるだけ見た目が悪くないように工夫して、マサトはロクの髪も整えた。少し離れて見て、治療着の襟を整えてからうなずいた。ちょっとはマシになった。それから王太后が来るまでに、病室の空気も入れ替えた。ロクが寒いと文句でも言うかと思ったが、ロクは外気でリフレッシュできたらしく、文句も言わずに風に当たっていた。
しばらくして王太后付きの護衛官と侍女がやってきて、病室のチェックをした。それが問題なく終わると、マサトも外に出された。同席の希望を出したが顔見知りの護衛官は苦い顔で王太后の希望だからと申し訳なさそうに追い出した。
マサトはせめてとロクに声をかけた。空洞になったロクの心に何が入ろうとも、自分が待っているからと教えたかった。とはいえマサトはそれをストレートに言うことはできなかったので、王太后の話が終わったらすぐに戻ってくるからなと言った。ロクはマサトを見て怪訝そうにしたが、素直にうなずいた。いまいち伝わっていないなとマサトは思ったが、とにかく後でちゃんと戻ることだけはわかっているよなと部屋を出た。
王太后が廊下の向こうからやってきていた。マサトは脇に下がって護衛官と共に敬礼をした。
王太后は部屋の前で少し足を止め、マサトを見た。
「調整、ご苦労でした。後でまた手を借りることがあるかもしれません」
「はい、いつでもお手伝いいたします」
マサトは答えた。王太后はニコリと微笑んで病室に入っていった。
護衛官がドアを閉め、マサトをチラリと見た。侍女も扉の脇で待つようだ。
「聞き耳を立てたら怒られるんだろうな」
マサトは護衛官を見た。
「当然だ」
護衛官が言って、シッシと手を振った。マサトはフンと廊下を下がった。別に構わない。ロクのベッド脇にちゃんと仕込みは済ませて来た。
マサトは医務室に近いトイレの個室に入った。鍵をかけてイヤホンを耳につっこむ。最近はマイクも小型化され、コードレスで音質も良くなった。ほぼ動けないロクがマイクに気づく可能性は低く、また王太后だってそこまでの警戒心はあるまい。
物音がしてロクが姿勢を整えたのか、マイクに雑音が入った。
よしよし。マサトはじっと耳に集中する。
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