13人が本棚に入れています
本棚に追加
1
夜明けの風景はいつの季節も好きだが、ことさら冬は幻想的に見えて美しい。標高三千メートルの玄武山を背にした玄武城は、薄靄がかかり、視界が不安なほどに悪くなる。しかしそこに朝日が差し込むと、靄がオレンジ色や桃色に染まり、草石と呼ばれるアイボリー色の石で作られた城壁も同じように淡い色に染まる。風がほとんどなく、海も空もしんと静まっている。見張り台に立つロク自身の呼吸が聞こえるほどだ。
山の中腹にある城からは、麓に広がる町が見える。城から谷を越えて伸びた橋のたもとにある広場から、放射状に道が広がっている。台地になった橋の周辺は主に商業地として栄え、谷川がゆるやかにうねって地表近くを通り、海に続く辺りは農地として開けている。太陽は丁寧にその土地を照らし始める。街の右手には森が広がり、そこにも森で暮らす人々がいる。森の向こうもまだ玄の国だ。左手に視線をやると川が見える。城の前の谷を通っていた白魚川が、徐々に高低差を失ってスピードも緩め、ゆっくりと国土を流れる。この川の水量が農業の要だ。玄国が周辺国よりも比較的豊かなのは、この川のおかげでもある。川の両側に農地と住宅地があり、人々の暮らしを支えながら水は海へと続く。
もう一つ、玄国が恵まれていたのは、白魚川が注ぐ湾の沖に海底油田が発見されたことだろう。資源が豊かな国は、国民も暮らしやすい。ロクが生まれる前は、この豊かさを狙った隣国との戦争もあったようだが、今ではすっかり落ち着いている。周辺国から玄国に移住する人も増え、それはそれで問題もあるようだが、今は深刻な状態には陥っていない。
ロクは太陽に顔を向けたまま、深く息を吸った。
冷たい空気が肺に届く。
城の両脇にある、標高千メートルほどの姉妹岳もオレンジ色だ。空が次第に水色になっていく。高い位置に雲が小さく見える。
今日も快晴だ。
ロクは左手首の時計を見た。針が七時十分前を指す。もうすぐ交代だ。さすがに六時間の哨戒任務はキツい。監視カメラもセンサーもあるのに、どうして人員配置が解かれないかというと、ただただ平和になった国に余った軍人の働き口を残しておくためだ。ロクは知らないが、ロクよりも十歳ほど年上なだけの奴らは自慢するように言う。戦争は大変だったとか、おまえたちは戦争を知らないからとか。大した武勇伝もないくせに、戦時中に生きていたというだけで偉いようなことを言う。ロクも確かに戦争は知らないから、閉口して彼らの自慢を聞くしかない。どこまで本当だか知らないが、たいていはネタもそれほどないので、何度も同じ話を聞く羽目になる。おかげで誰が何をしたのかすっかり覚えてしまった。
靴音がして、交代要員がやってきた。
ロクは背筋を伸ばし、敬礼をする。一番下っ端なので誰にでも下手に出るのが癖になっている。相手も軽く敬礼を返す。時刻を読み上げ、交代許可を相手が出すと、ロクは腕につけていた腕章を外して相手に渡す。これでホッとすると怒られる。最後に「失礼します」と言って再度敬礼だ。相手が「ん」とか何とか言ったら、やっと解放される。
走りたいところだが、城内でやたら走ると怒られる。かといってのろのろしていても怒られる。早足でキビキビと。これを数年前に何度やらされたことか。スピード感覚を掴むまで、毎日何時間も歩かされたのを思い出す。
見張り台から螺旋階段を降り、外階段につながるドアに抜ける。まだ靄がかかった中を塔に沿って階段を降り、城壁通路を通って、小さな別棟に進む。歩いているうちに靄も薄まってきた。太陽の光が強まり、朝という感じがしてくる。心無しか冷えていた体も暖まる気がした。
金属製のドアの前で右手首についた金属製のIDブレスレットをキーボックスに近づける。手錠みたいでロクは嫌なのだが、パスワードも不要で鍵を持たずに歩けると喜ぶ奴もいる。
ブレスレットに埋め込まれたICチップを読み取ったドアが開き、ロクは中に入ってボタンを押し施錠する。
「あれ、サン、珍しく朝帰りか」
寮棟の出入り警備をしている老兵オキツがからかう。
「マサトの代理」ロクは答え、オキツのカウンターの裏にある階段を上がる。ロクの部屋は五階にある。一階は会議室や食堂、風呂やトイレで、個室は二階以降にある。正確にいうとロクの部屋ではなくマサトの部屋だ。マサトの部屋の一角をロクが使わせてもらっているに過ぎない。マサトは護衛官の教官だ。以前は王妃の護衛官をしていたが、怪我をして一線を退いたらしい。本当のところはロクも知らない。ロクが城に入る前の話らしいから。
再びブレスレットで個室のドアを開き「ただいま」とロクは外套をハンガーにかける。手袋や耳当てを所定の場所に置き、帽子をフックにかけ、耳のインカムを外し、腰の短剣とホルスターの拳銃をキー付きボックスにしまう。こんな物騒なものを身につけないといけないなんて、護衛官てのは大変だなとロクは思う。
洗面所で手を洗い、顔を洗い、それから部屋に入った。部屋は広めのリビングダイニングと、個室が二つ。それぞれロクとマサトが使っていて、当然ながらマサトの部屋の方が広い。室内は支給品で固められている。マサトぐらいになると、普通はもっと個人のものを持ち込むのだが、マサトは味気ないぐらいシンプルに暮らしている。
「状況報告を」
ジャージ姿のマサトが煙草をくわえながら言う。寝起きのようだ。ライターで火をつける仕草を見て、ロクはマサトの長い髪に火がつかないかヒヤヒヤする。だがマサトはそういうヘマをしたことがない。
「問題なし」ロクは答え、テーブルを見た。そして嬉しそうに笑う。ちゃんとご褒美が置いてある。マサトの作ったフレンチトーストだ。ホットミルクも湯気を立てて待っている。
「食べていい?」ロクは椅子に座りながら言う。もう手はフォークを取っている。
「着替えたらな」マサトはけだるそうに言う。
ロクはチッと舌うちをして、それでも急いで着替えに行く。着替えといっても服のバリエーションはない。支給された服はたったの三種類。白いシャツにジャージの上下、それから土色の作業服上下、あとは正装のスーツ。部屋にいる間はシャツにジャージ姿だ。寒ければ上に作業服を着る。スーツは許可が出た時に、クリーニングから配達される仕組みなので普段は持っていない。冬の外出用ブーツを脱いで、室内履きのくたびれたゴム底の靴に履き替える。
「また小さくなってないか?」ダイニングテーブルの椅子に座ったマサトがロクの服を見て言う。
「なってない。さすがにもう成長は止まってる」ロクは呆れて答え、テーブルについた。そして「いっただきまーす」と手を合わせる。
「元気だねぇ、夜勤明けで」マサトはコーヒーをすすり飲む。本当に王妃の警護をしていたのかと疑いたくなるような脱力感だ。
「現役時代はどうしてたんだよ、毎月、都合良く休みにしてもらうってのは難しいだろ?」
ロクはフレンチトーストを頬張りながら言った。粉砂糖が頬につくが気にしない。
「王妃はお優しい方だからね、ちゃんと配慮してくれたんだよ。女同士、そこんところは何も言わなくてもわかっちゃうんだよね」
「そうかよ」ロクは肩をすくめる。この城であんたを女だって思ってんのは、俺と王妃ぐらいしかいないんじゃねぇの? そう思うが、黙っておく。月のモノが来ているマサトを怒らせても何の得にもならない。
「ホント、面倒な体だよ。あんたが羨ましい」
マサトが言って、ロクは彼女を見た。自分が成長した分、マサトも年を取っている。今でもマサトは年齢を教えてくれないが、初めて会ったのがロクが十歳の頃で、マサトは二十代後半から三十代前半だった。十二年が過ぎた今では、マサトも四十近いか過ぎているはずだ。マサトは体を使う仕事のせいか、とても若く見える。今でも三十代前半に見えるが、周りの人の話を全部合わせると、マサトはたぶん四十歳ぐらいだ。マサトは自慢しないが、戦争にだって行った事があるんじゃないかと思う。
「男は子どもを産めない」ロクが言うと、マサトはおもしろそうに肘をついてロクを見た。
「へぇ、そういうこと言うんだ? 結婚とか意識する年頃になったってわけ?」
「違う。マサトが男がいいとか言うからだろ。そりゃ護衛官って仕事的には男の方がいいかもしれないけど、女の方が強いとこもある」
マサトは笑って聞いている。ロクは小さく息をついた。
「俺が邪魔したんじゃないよな?」
「うん?」マサトはコーヒーと煙草を交代で口につけながら、ロクを見るために髪をかきあげた。長い髪がコーヒーか煙草につきそうで、やっぱりロクはヒヤヒヤする。黒くてきれいな長い髪なのに、焼けたりしたらもったいない。ロクは自分の赤褐色の髪が好きではなかった。今は必要があって栗色に染めているが、元々は変な色だ。そんな色ではなく、マサトみたいに真っ黒だったらいいのにと思う。王子の護衛長をしているホークみたいに銀色混じりでも格好いい。
「俺を押し付けられたから、結婚できなかったとかじゃ…ないよな?」
ロクはちょっと不安になって言う。
「ふうん」マサトはにんまり笑った。
ロクは十歳の時に城に来た。それまでは孤児用の寄宿舎にいた。ロクが産まれるちょっと前まで戦乱の名残があったので、ロクの年代には孤児も多かった。ロク自身も両親や家族がどうなったのかよく知らない。気がついたら寄宿舎で、気がついたら城に呼ばれていた。城の王子の遊び相手として召されたらしい。そしてマサトに会った。マサトは怪我のリハビリ中で、子どもの面倒を見るようにと命令されたのだった。
「そう思うんなら、もうちょっと私に尽くしてもいいんじゃない?」
マサトはニヤリと笑う。ロクは眉を寄せ、それからミルクを飲んだ。マサトの本心はいつもわからない。ロクにことさら冷たく当たるわけでもないが、深い愛情で包まれたという記憶もない。仕事のストレスか何だか知らないが、酔っぱらってロクに怒鳴り散らすことぐらいはある。ロクが辛い時に一緒に居てくれたことはある。その程度だ。
「心配しなくても、あんたがこの部屋を出て行ったら、自由に男を連れ込むよ」
ひひひとマサトは気味の悪い笑い方をした。
「申請はしてるんだけどなぁ。空き部屋がないんだって」ロクは目を伏せた。
「そうねぇ、あんたもいつまでもオバサンと一緒じゃ、エッチな本もコソコソ見ないといけないものねぇ。思い出すわぁ、ほらちょっとまえに大量に見つけちゃったじゃない。あんたに悪いことしたなって思ってね」
「大量じゃないだろ。二冊だろ」ロクはムッとして言ってから、顔を赤くした。何なんだ。
「考えてみたら、若い男と同室なのよね。クソガキにしか見えなくて興味もなかったけど、あんた、もう大人なのよねぇ。若造だけど」
からかわれている。ロクはそれを察して黙り込んだ。フレンチトーストをたいらげ、ミルクも飲み干す。マサトはロクにとって、母親みたいなものだ。マサトにとってのロクも、きっといつまでも子どもなのだろう。部屋を離れたら、その関係が壊れる気がして、ロクは申請が通らない事に少しホッとしていた。
城に来て右も左もわからないロクに、マサトはいろんなことを教えてくれた。ロクが病気になったときはマサトがそばにいてくれた。マサトの働く姿を見て、ロクは護衛官に憧れた。しかしロクは護衛官として城に呼ばれたのではなかったので、護衛官にはなれなかった。それでもマサトには護身術や逮捕術を教えてもらった。フレンチトーストという食べ物を知り、生まれて初めて自分だけの本をマサトの給料日にもらった。ロクには給料というものがないのでマサトには何もプレゼントできていない。マサトにはいろんなものをもらったのに、ロクは一つも返せていない。それが今でも申し訳なく思う。だからせめて、マサトが病気になったり怪我をしたら、自分が恩返しをしようと思っている。そのためには近くにいたかった。
「食べたら歯を磨いて寝るんだよ」
子どもの頃と同じようにマサトが言って、ロクは流しで皿を洗いながら少しくすぐったい気持ちになった。
最初のコメントを投稿しよう!