第三章 雨を乞う

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「あら」  璃鈴が立ち止まると、向こうも気づいてその場で膝をついた。三人の女官の他に、一人だけ、男性がいる。後宮のここまで入ることを許されている男性は、龍宗を除けばたった一人だ。 「飛燕様」  「久しゅうございます、皇后様」  来飛燕は、龍宗の側近だった。里からの道中、ずっと護衛をしてくれていたため、璃鈴もすっかり親しくなっていた。物静かだが、芯の強そうな青年だった。 「今日は陛下のご用でございますか?」 「いえ。用といえば、皇后様の」 「私の?」 「はい。入宮されたばかりで申し訳ありませんが、近日中に皇后様に舞の奉納をお願いしたいのです。本日はその準備のためにまいりました」 「雨ごいですね」  淡々と話す飛燕の言葉に、璃鈴は表情を引き締めた。  皇后となった巫女は、結婚しても輝加国の雨の巫女としての役目を続ける。必要がある時には、雨ごいの舞を奉納するのが仕事だ。池の上にある神楽は、皇后のためだけの舞台だった。 「はい。占いの者が、ただ今吉日を読んでいるところです。日が決まりましたら、あらためてお願いに参ります」 「わかりました。あの……」 「なんでしょう」 「陛下は、お忙しいのでしょうか?」  不安そうに聞いた璃鈴に、飛燕は、ふ、と表情を緩めて苦笑した。 「とても。もともと陛下はご自分一人で要務をこなしてしまうきらいがあるため、仕事がたまってくると宮城を出る暇がなくなります。まさに今がその状況にあられて、皇后様にはお寂しい思いをさせてしまいましたね」 「寂しいだなんて……」  璃鈴は、あわてて首を振る。自分が、忙しい龍宗のことも理解せずに駄々をこねる子供のように思えて急に恥ずかしくなったのだ。  その様子を、飛燕は微笑ましく見守る。 「今夜こそは陛下を皇后様のもとにお返しするとお約束しましょう。そろそろ陛下もゆっくり休まれた方が良いかと思っていたところです。どうか、よろしくお願いいたします」 「……はい」  今夜、龍宗に会える。  それが分かると、とたんに璃鈴の胸は高鳴った。   ☆  秋華は、後宮の廊下を歩いていた。尚宮の用事は、璃鈴の舞の事だった。  妃の仕事はその階級に応じて様々なものがあるが、輝加国においての皇后の仕事は、雨ごいの舞を奉納することである。この国で皇后の地位は雨の巫女に限られるので、それ以外の仕事はほとんど分担されていない。  廊下に響くのは秋華の足音だけで、あたりに人影はなかった。  内宮に位置する後宮には、過去一番多い時は数千人もの妃嬪がひしめいていたという。けれど、徐々にその数も減っていき、先帝の時代には十人にも満たない数になっていた。そして今は、まだこの広い後宮には皇后である璃鈴しかいない。必然、女官や下働きの者もまだ少なく、後宮内は静かだった。 「早く他の妃も入宮させないと」  ふいに、苛立ったような高い声がどこからか聞こえて、秋華は足を止めた。 「ご婚儀から一週間、陛下が皇后のもとを訪れたのは、わずか一晩。これではお世継ぎも期待できませぬ」 「所詮、世間知らずの巫女ふぜい。形だけの皇后にすぎぬからな」  聞こえた声に、秋華は息を飲む。それは、後宮にいるはずのない男の声だったのだ。中年と思しきその声は、後宮に入ることを許されている飛燕のものでないことはすぐに分かった。  あたりを見回すと、どうもその会話が聞こえてくるのは、後宮の入り口に近い一室だ。皇帝の私室も近く、急用のある官吏などが訪れてもおかしくはない。だが、話の内容と相まって、その男の声は異質に聞こえた。
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