空を見上げる時間

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 実家から徒歩で七分。山の山頂にある公園。山頂だけあって、団地全体を見渡すことができる。特に夏祭りの際は花火を上げるため、眺めるには絶好のポイント。多くの地元民がよく集まる場所として知られている。  だが、花火がなければ誰も来ない寂れた公園でもある。  食品工場に務める俺は違うことがしてみたかった。  普段絶対に来ないだろう公園に足を運び、木製のベンチに座ってかれこれ何時間経っただろうか。飽きずに空を見上げ、ゆっくりと動く呑気な雲を眺めている。  ここに来る前、コンビニで買った缶コーヒーの中身はもうない。  昼間っから何をしているのか……。この間にも俺以外の人たちは日々進化するために努力しているだろう。そう思うと悲しくなってくるが、数分耐えるだけで諦めがつく。 せっかくの休日だというのに、家にいると鬱になりそうな気がした。どんよりとしたあの空間にいるよりかは、公園で無意味に空を眺めている方がよっぽど楽でいい。  本当にゆっくりで、スロー再生のように動く雲が、今は馬に似た形に変わった。風の動きによってランダムに形を変える雲。見ているだけでも飽きることはない。  それとは逆に、工場では毎日同じことの繰り返しで、もうちょっと飽きてきた。段ボールを上げて、製品の印字がずれてないか確認して、生産する製品が変わる時は掃除して、それの繰り返し。  機械が正常に動いていれば、ただボーっと突っ立っているだけで、こんな中身のない仕事をして給料が発生していると思うと、ちょっとした罪悪感さえ湧いてくる。  ってか、腹減ったな。昼食べてないし当たり前か。缶コーヒーだけで足りると思ってたんだけど、それは無理らしい。  コンビニでサンドイッチでも買おうかな。 そう決めて立ち上がろうとすると、隣に誰かが座ってきた。少し乱暴にお尻を置いたのか、ベンチが揺れた。  誰だろう。  そう思い、隣を振り向こうとした時だった。 「こっち見ないで」 「っ!」  女性の声だ。甲高く、耳に響いた。見ないでと言われ、咄嗟に振り向くのを止める。行き場を失った視線は、また空を見上げた。  空に浮かんだ雲は形を変え、馬の頭が伸びて、ケンタウロスに似た形に変わっていた。 「おじさんはここで何してるの?」 「お、おじさんって、俺はまだ二十代なんだけど」 「そうなんだ。で、おじさんはここで何してるの?」  人の話しを聞いてない。まあ、おじさんと言われて嫌ってわけじゃないからいいんだけどさ。 「雲を見てたんだ。君は何でここに?」 「私はね、う~ん、何でだろう? そう訊かれたら困るな~。気づいたらここに来てた、かな?」 「ああ、そう言うこと……」  隣に座る女性もかなり病んでいるらしい。もしかしたら俺以上に精神的にダメージを負ってる。声を聞く限り、十代だろう。俺より若いのに……。 「おじさん、今暇?」 「ま、まあ、暇だけど……」 「そうなんだ……」 「ん? うん……」  なぜか気まずくなった。別に変なことは言ってないし、ただ訊かれたから答えただけで、どうしてこんなにも居心地が悪くなるのだろう。  ケンタウロスの形をした雲が徐々に崩れて、三匹の金魚に形を変えた。  雲はいい。優雅に風の吹くままに動ける。そこに自分の意思はないのだろうが、意思があるから悩み、考え、俺みたいになってしまう。いや、俺はまだマシな方かもしれない。  そんなことを考えていると、隣に座る女性からとんでもないことを言われる。 「おじさん暇ならさ、私と遊ばない?」  突然のことで、雲の形を眺めている余裕がなくなる。冗談だ。俺をからかっていて、尻尾振って頷いたら笑われるに違いない。 「止めとくよ。怖いし」 「私、別に冗談とかで言ってないよ。本気だよ。学校サボって暇だし、家にいてもやることないし、どうしようっかな~って思ってたところなの」 「学校? 君って学生なんだ」 「そうだよ。高校二年生。リアルJKだよ。どう? 女子高生と遊べるんだよ。こんなチャンス滅多にないと思うけどな~」  誘っているのか、からかっているのか。これに乗ってしまったら、俺は完全に終わってしまいそうに思える。  正直、女子高生からの誘いは興奮してしまう。だが、それに負けてはダメだ。 「どんなに暇でも君とは遊ばない。そんなことより、何で学校サボったんだ?」  俺は休みを貰っているけれど、今日は平日。彼女が学校をサボっている理由が気になった。無神経かもしれないが、もし彼女がいじめを受けていて、ここに来た理由が自殺だとしたら、俺は見逃すことはできないし、加害者扱いされたくない。 「めんどくさかっただけ」 「それだけ?」 「それだけだよ。でも、私にとっては辛いの。何の役に立つのかわからない勉強をさせられて、勝手に点数つけられて、勝手に優劣をつけられて、成績のいい生徒だけに重点的に教えて。それがもうぜ~んぶ面倒臭い」 「……そうなんだ」  俺も学生時代は彼女と同じことを思ってたかも。ただ、それが面倒臭いとは思わず、どうせ俺なんて、ってどこかで諦めていた。だから、ずっと成績は悪かったけど。 「じゃあ次は私ね」 「いつの間に交代制になったのか……答えられる範囲で答えるよ」 「それずるくない? 私は正直に答えたんだから、おじさんもちゃんと答えてよ。黙るとかなしだからね」 「わかったよ」  空に浮かぶ雲を見上げながら、俺は仕方なく頷いた。 「おじさんはどうしてここに来たの? 二十代って言ってたけど、大学生とかじゃないよね。なんかそんな感じしないし」 「大学生の感じがよくわからないけど、君の言う通り大学生ではないよ。ただの工場勤務のおじさんだよ」 「へ~、で、どうして雲なんか見てるの?」  工場勤務には興味なかったらしい。とても乾いた、へ~、を聞いた。 「雲を見てたら落ち着くんだ。いつも違う形をしてくれて、見ていて面白い」 「そう? 雲見てる方が飽きない?」 「今のところ飽きてないな。家にいるよりかマシだからな」  家にいたら、今頃は布団の中でぐっすり眠って、起きた頃には外はもう真っ暗だろう。そんな一日を過ごすくらいなら、雲を眺めながら自然の空気を吸っていた方が、気分的に楽でいい。 「私も、学校や家にいるよりここにいた方がいいかな。解放されたって思えて、気楽でいいから」 「学校はわかるけど、どうして家だと気楽でいられないの? 君ぐらいの歳だったら、家にいる方が気楽になれそうな気がするけど」  金魚に散らばった雲が風に流れて、一つの大きな塊となり、数十人は呑み込めそうなぐらいの大口を開けたクジラの形に変形した。それを眺めていると、隣からため息が聞えてきた。 「おじさんはわかってないな~。そこら辺の大人と同じ。頭に電流でも流されてきたら?」 「そ、そこまで言うか」  女子高生の口調がどこか呆れているような感じがした。それにしても言い過ぎだ。頭に電流なんて流されたら死んでしまうじゃないか。 「そりゃ言うよ。人それぞれ家庭事情があるんだから、おじさんの勝手な思い込みじゃあ、何もわかんないよ」  た、確かにそうかもしれない。 「大人っておじさんみたいに勝手な思い込みが正しいって思って生きてるから、嫌になるんだよね」 「押し付けってやつか……」 「そうそう! おじさんわかってんじゃん!」 「ははは、まあね」  女子高生に褒められて嬉しいと思う日が来るなんて。そもそも、褒められた経験がないから照れてしまう。 「確かに思い込みを押し付けられたら嫌だよな。君はそれが嫌で学校をサボったってこと?」 「それもある、ってとこかな」 「そっか……サボったのは今日が初めて?」 「ううん何回もあるよ。数えてないからわからないけど、もしかしたら卒業できないかも」  彼女がどこか諦めているように軽く笑った。  俺も学校をサボったってことはないけど、母親を説得して、何度かずる休みをしたことがある。あの時は何となく学校が嫌だった。 「お節介で嫌だと思うかもしれないけど、高校は卒業しておいた方がいいよ。窮屈な思いをするかもしれない。君がそんな思いをする必要はないんだ」 「ふふ、ふふふ、ふふふふふっ」  笑い声を堪える彼女。何がそんなにおかしいのか。変なことを言ったつもりはないんだが、何かが彼女の笑いのツボに刺さったのだろう。 「そんなに面白かった? 笑かせたつもりはないんだけどな」 「いや、違うの。嬉しくて、笑っちゃった」 嬉しい? 俺はよくわからず、クジラの形をした雲に向けて首を傾げた。 「うん! 見ず知らずの私を心配してくれて、お世辞かもだけど、嬉しかった」 「お世辞じゃない。君はまだ若いから、こんなところで躓く必要はない」 「まだ若いって、おじさんもまだ二十代で若いでしょ」  若いと思ってるんだったら、おじさんじゃなくてお兄さんとかにしてくれると嬉しいんだけどな。 「そうだね。そうだった……できればおじさんじゃなくて、お兄さんって呼んでくれるとね、いいんだけど」 「え~、お兄さんってなんか変じゃない? 私はおじさんで納得してるからおじさんって呼ぶね。もしかして嫌だった?」 「嫌ではないけど……もうおじさんでいいよ。どうせ俺は老け顔だからな」  高校生の時だったかな。スーパーで、ビールの試飲を異様に勧められた記憶がある。未成年ですって言ったら、えっ、嘘でしょ、みたいな顔されたことがあった。 「老け顔かな? そう見えないよ」 「嘘だな。最初におじさんって言ったじゃないか。それだけで俺がおじさんに見えたってことだろ」  少しぶっきらぼうに言うと、彼女はくすっと笑った。 「全然違うよ。私がおじさんって言ったのは、呼び方がそれしか思い浮かばなかっただけだよ。別におじさんのことおじさんだって思ってないよ」 「それならいいんだ」  まさか女子高生に慰められる日が来るとは。  俺はポケットからスマホを取り出して、隣に座る女子高生が視界に映らないよう気をつけながら、起動させたスマホの画面を見た。  十六時三十分。  もう帰ろうかな。 「もしかして帰ろうとしてる?」 「え? ああ、そうだけど……そろそろ帰ろうかと思ってる」 「それはダメ」 「え?」  ダメと言われても、明日仕事あるし。そろそろ帰って、早めに夕飯食べて寝ようかなって思ってるんだけど。じゃないと仕事中に寝そう。 「ごめんけど、俺は帰るよ」 「もうちょっと話そうよ。ダメかな?」  女子高生の手が、俺の手にそっと触れた。柔らかくて、温かい感触が伝う。 「私、おじさんともっとお話ししたいな」  空を見上げる俺の耳元に可愛らしい声と共に、生温かな吐息がかかった。ゾクゾクしてこそばゆかったけれど、それ以上に興奮してしまいそうだった。  女子高生にこんなことされたら、帰る気分なんて一瞬にして吹き飛んだ。 「わかった。もう少し話そう」 「やった! おじさんは優しいね」 「優しくはないよ」  女子高生の手の感触と色気に負けただけで、優しいなんてことはない。単に邪な気持ちが勝っただけだ。  と、帰るのを止めたものの、何を話せばいいんだろう。営業マン並みのトーク力なんて持ち合わせてないし、話題も思い浮かばない。  う~ん……。クジラの雲が風に削られて、空高く飛び上がったイルカの形に変わった。それを見届けながら話題を考えるのだが、女子高生相手に俺が話せることなんてないだろう。  すると、俺の手から彼女の手が離れた。 「おじさんは今のままで満足してる?」 「恐らく満足はしてない。君はどうなんだ?」 「私は全然してないよ。してたらこんなところに来てない。学校で授業受けてるよ」 「そうか。でも何でそんなこと訊いたんだ?」  これは俺の勝手な思い込みかもしれないが、女子高生という若さで満足してるかどうかなんて考えるには、ちょっと早すぎるような気がする。 「何となくかな。満足ってどこら辺で満足してるってわかるのかなって思って……おじさんはわかる?」 「そうだな、強いて言うなら美味しいものを食べている時は満足しているかも」 「あ、それわかる! お寿司食べてる時とか幸せな気分になる」 寿司か……。ここ何年も寿司なんて口にしてないな。久しぶりに食べたくなってきた。給料入ったら行こうかな。 「食べてる時は幸せな気持ちになるよね。おじさんがお寿司に誘ってくれないかな~」 「おいおい、それって俺が奢るってことか」 「そうだよ。私、女子高生だし」 「女子高生だから寿司を奢るって……まあ、そうだな、君がちゃんと学校に通って、卒業できたら奢ってもいいかな」  他人に奢るのは、思い返してみると一度もない。それ以前に友達がいないから当然だった。 「え~、今奢ってくれないの? お寿司食べたら頑張れる気がするのにな~」 「君はまだ高校生だ。こんなおじさんと寿司なんて食べに行ったら、俺が警察に捕まりかねないし、君も怪しい目で見られるでしょ、だから、高校卒業したら奢ってあげる」 「本当かな~。はぐらかそうとしてない? もし卒業できたら絶対に奢ってよ。ここで待ってるから」 「ああ、約束する。俺もこの公園で待ってるよ。君こそちゃんと来てくれよ。じゃないと俺が痛い奴になっちゃうからな」  とは言っても、卒業するまでにいろいろな出会いが彼女には待ってるだろう。彼氏ができたり、夢ができたり、それに伴って進路が決まって忙しくなったり。こんな俺に構っていられるほど彼女は暇じゃなくなる。  そう考えると、卒業しても彼女はここに来ないかもしれない。 「私は何があっても来るよ。お寿司食べたいからね」 「はは、じゃあ待ってる」  余計なことは考えない方がいいかもな。彼女が来るって言っているのだから、騙されたつもりで信じてみよう。  イルカの形をした雲が、風によって散らばり、ただの雲になった。何の形もない。単に俺の想像力が途絶えたから、何も見えなくなったのかもしれない。彼女だったら何かが見えるのかも。  何故かそんなことが気になった。俺とは違う景色を彼女には見えているのかもしれない、と。 「あの雲、君にはどんな形に見える?」  気がついたら口から出ていた。変なことを言ってるのはわかっているが、気になったのだから仕方ない。  俺は彼女の方に耳を傾ける。 「う~ん、何だろう……」  彼女の顔は見えないが、首を傾げているのだろうと想像できる。 「おじさんは何に見える?」 「俺はただの雲にしか見えない」 「何それ、私もただの雲にしか見えないよ?」 「そうなんだ」 「あ、でもあれはちょっと手の形に見えるかな。グーを作ってるように見える」  あれと言われて、どれだろうと空に向けた視線を右往左往させる。散らばった雲の中に一つだけ、拳と思われる雲があった。 「思ったんだけど、ずっと空見てて首痛くないの?」 「けっこう痛いよ」 「痛いのに見てるの? 雲見てて楽しい?」 「楽しいよ」  一面に広がる住宅街など見ても楽しくもない。ならば風の動きによって様々な形を見せる雲の方がいい。 「へ~」  興味なさそうだな。  昇っていた太陽が徐々に沈み、日が傾く。 「もうそろそろ帰った方がいいんじゃないか? 暗くなったら危ないしな」 「え~、帰りたくないな~」  家に帰りたくないなんて。深刻な家庭事情でもあるのだろうか。もしかして虐待を受けているとか……。こっち見ないでって言ったのも顔に痣があって、それを見られたくないとか……。だとしたらすぐにでも児童相談所に連絡しなければならない。  そんな心配が沸々と湧いてくる。 「どうして帰りたくないの?」 「え~、だって妹いるし……」 「え?」  予想外の答えに、思わず彼女の方に顔を向けそうになった。 「妹さんと仲良くないの?」 「そうだね。あんまり良くないかな」 「そっか……」  理由が気になるが、見ず知らずの俺がずけずけと家庭事情に触れていいものかどうか。  隣の彼女は今、何を見ているのだろう。俺と同じで空を見上げているかもしれないし、スマホを弄っているかもしれない。  彼女を信じるなら、虐待はされていない。それでも、妹と仲が良くないのは辛いだけだ。どうしてだろう。  そんなことを考えていると、隣からため息が聞えてきた。重たく切ないため息。彼女がどんな表情をしているのか、隣を見ることを禁止されているから、窺うことはできない。  まあ、ため息をついて笑っているなんてことはないだろう。 「さっきさ、妹と仲良くないって言ったじゃん。あれ、私が一方的に嫌ってるだけなんだよね」  独り言のような小さな声。恐らく俺に向けて放たれた言葉だ。ただ唐突で、独り言みたいだったから反応できなかった。  しかし、彼女は気にしていないのか、話を続けた。 「私の妹って何でもできるんだよね。成績も上位だし、運動神経も抜群で、先生たちから気に入られてる。おまけに副会長だよ。あ、妹は私の一個下ね。同じ高校だからよく知ってるの」 「そうか……君の妹さんは天才ってやつか」 「そうそう! 天才なの。ホント、嫉妬しちゃうよね」  それは嫉妬するよな。わかるよ。俺も知り合いの一人が偏差値七十ぐらいの大学に受かって、今では起業して、社長してるし。自分と比べると天と地ほどの差があって、正直、嫉妬してしまう。  彼女が抱いているだろう気持ちが痛いほどわかる。  胸が痛いよな。自分が嫌になるよな。 「私だって勉強頑張ってるんだけど、テストの点数は悪いまま。先生から勉強しなさいって言われて、してる! って言っても信じてくれないし……」 「わかるよ。努力はしても必ず報われるとは限らない。人それぞれ努力の度合いは違うし、それを勝手な基準で定めることはできない」 「おじさんわかってるじゃん! 何か気が合うよね!」 「ま、まあね……」  初めかもしれない。こんなにも共感できる人と出会ったのは。彼女が女子高生じゃなかったら、友達になれてたかもしれない。 「私、おじさんの家に泊ろっかな~」 「おいおい、俺は実家暮らしだから母親がいるんだ。女子高生なんて連れて帰れない」 「そっか、まあ冗談なんだけどね」 「冗談かよ……」  本気で言ってるのかと思った。そうだよな、いくら妹と仲が悪くたって俺みたいな男の家に泊るなんてあり得ないよな。  少し暗くなってきた。先ほどまで夕焼けだった空が霞み、星たちの輪郭が見え始めた。まだうっすらとだが、真っ暗になるまで時間の問題だろう。 「もうそろそろ帰った方がいいんじゃない? 暗くなってきたし、夜道は危ないよ」 「別に平気だよ。何も起きないって」 「万が一ってことがあるから、特に君は女子高生で、そんな子が夜に一人でいたら怪しい奴らが寄ってくるよ」 「私、何回も夜に一人で出歩いてるけど、一度も怪しい人に会ったことないんだよ? もう少しここにいても大丈夫だって」  彼女が頑なに帰ろうとしないので、一人彼女を置いて帰ることはできない。危険すぎるし、何より心配だ。  その内飽きて帰るだろうか。いや、そんな訳ないか。何回も夜に出歩いてるとか言ってたもんな。よく今まで何事もなかったものだ。  暗くなりつつある空を眺めていると、星たちの輝きが増していき、雲が見えなくなった。 「おじさんは帰りたいの?」 「まあね。明日に備えて寝ときたいかな」 「そっか~」  そう言ったあと、彼女は「よしっ」と言って恐らくベンチから立ち上がったのだろう、ベンチが少し揺れた。  空を眺める視界の隅、サラサラとした黒髪が綺麗に靡いた。一瞬だけ見えた黒髪に見惚れていると、地面を蹴る音が聞えてきた。  背後に彼女の気配がする。なぜ俺の後ろに立つんだ。 「どうした? 帰るのか?」 「そうだよ。おじさんが困ってるみたいだからね~」 「本当に帰るのか? 寄り道しそうだな」 「ちゃんと帰るよ? って、何でそんなに心配してくれるの? 何か面白い」  背後でクスクスと笑い声が聞えてくる。 「そりゃあ心配するよ。学校サボって、こんな時間まで見ず知らずのおじさんと話す女子高生を心配するなって言う方が難しい」  俺がそう言うと、背後に立つ彼女が大きな声を上げて笑い出した。何がそんなにおかしいのか。 「笑いすぎだろ」  腹抱えて笑ってるんじゃないかと思うほど、彼女の笑い声が公園に大きく響き渡っている。 「ごめんごめん、おじさんがおかしなこと言うから」 「おかしなことを言ったつもりなんてないんだけど」 「ううん、とってもおかしなこと言ってたよ。でも、心配してくれてありがとう」 「ああ、うん……」  女子高生にお礼を言われたのは初めてで、照れてしまう。頬が熱くなっていく感覚がある。 「嬉しいな。これで明日の学校行けそうかな」 「サボりはほどほどにね」 「うん! でも、辛くなったらまたここに来るかも。その時はまたお話ししようね」  俺が返事をするよりも先に、彼女が地面を駆ける音が聞えてきた。俺が振り向いても彼女の顔を確認できないためか、それとも単に元気なだけかはわからない。  もう振り向いてもいいよな。  誰に確認する訳でもなく、心の中で呟いて、俺はゆっくりと振り返った。しかし、そこには誰もいない。あるのは忘れ去られて悲しみに包まれた遊具たち。風によって錆びついたブランコが揺れている。  俺の座ってるベンチから公園の出入り口までは少し距離がある。振り向くまでに数秒を要したのだが、彼女の後ろ姿ぐらいは見られると思っていた。  一人で帰らせてしまったけれど、寄り道とかしていないだろうかと心配になってしまう。彼女がどうなろうと俺には関係ない。ましてや顔も知らない。それでも自然と心配になる。  空の缶コーヒーを持って立ち上がり、網状のごみ箱に投げ入れて、俺も公園をあとにした。  あれから、何度か公園に足を運んだ。でも、一度も彼女の姿は見なかった。 『辛くなったらまたここに来るかも』  その言葉が頭の中で繰り返される。  ここに来ないということは、辛くなっていないと考えていいのだろうか。  俺は今日も公園のベンチに座って、空を見上げている。雲一つない晴天のため、ただただ青空が広がっているだけ。  雲が何らかの形に変わって、それが何の形なのか当てるゲームを行うことができない。少し退屈だ。それでも、もしかしたらあの子が来るかもしれないと、ここを離れられない。  今日も、暗くなってきたら帰ろう。  彼女は彼女で上手いことやっているのだろう。俺は相変わらず同じことの繰り返しで、毎日がデジャブで、曜日間隔さえも曖昧になりつつある。  いや、俺が何もしようとしてないからかもしれない。普段とは違うことをやってみようと公園に来たはいいが、何回もここに来ていると、それが徐々に日常に染まってきて新鮮さが薄れていく。  まあでも、公園に行くまでに軽い運動ができてるから、彼女がいようがいまいが続けようと思っている。もしもまた出会うことができたら、その時は彼女の愚痴を聞こう。ここに来るということは辛くなったというサインだからな。 あとは、卒業したら寿司を奢る、だったな。俺は冗談のつもりは全くない。彼女が来てくれるのであれば、必ず寿司に連れて行く。とは言っても、彼女は冗談のつもりで言ったのかもしれない。  無事に卒業できればいいが、正直、俺は高校を辞めているから何とも言えない。別に虐められていたからではない。彼女と一緒。学校に行くのが嫌で退屈だった。母親に一言も言わず勝手に辞めた時は、恐ろしいほど怒られた。その後は通信制の高校を卒業したのだが、就職活動は本当に苦だった。  必ず高校を辞めた理由を聞かれ、答えると苦い顔をされ、落とされる。それを繰り返して、何とか就職したところは退屈ながらも続けられている。 最初は辛くて、高校の時みたいに辞めようと思ったが、鬼の形相で迫ってくる母親を思い出したら辞める勇希を削がれてしまって、今に至る。  それにしても、ここの公園には人がいない。何回も足を運んでいる中でも、人に会ったことがない。タイミングの問題もあるだろうが、俺以外にここにいるところを見かけたことがない。唯一会ったのは、顔も名も知らない女子高生ぐらいだ。  そんな彼女が来る気配がないので、俺は帰ることにした。ベンチから立ち上がって、来た道を戻る。  結局、今日もあの女子高生には会わなかった。  今のところは上手くやっているのだろう。そう思うしかない。最悪な想像もしてしまうが、俺は良い方に考えることにする。  そう決めつけた俺は、寂れた公園に背を向けて山を下りて行った。  
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