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「失礼しまーす」
診察室の引き戸を右に引っ張ると、大きなシルエットがこちらを振り返った。
「おっ、理人くん。いらっしゃい」
「葉瑠先生!?」
丸い椅子をくるりと回転させたのは、白衣姿の葉瑠兄だ。
理人さんは、幽霊を見てしまったかのように口をパクパクさせている。
「なんで葉瑠先生が東京の病院に……」
「人手が足りないからって、一時的に呼ばれてね。名古屋の病院と提携だからさ」
「そう聞いたんで、兄貴の枠に予約入れてもらったんです。見知らぬ先生にやられるよりは、兄貴の方がいいと思って」
「佐藤くん……!」
輝きを取り戻したアーモンド・アイは、あっという間に絶望に塗り替えられた。
体温も平熱。
呼吸音も綺麗。
脈拍も、一時的にかなり速くなっていることを除けば、なんの問題もなし。
完全な健康体であることを宣言され、猫背になった理人さんが白いベッドによじ登る。
「さて、理人くん」
作り笑いをべっとりと貼り付けた兄貴が、椅子を引きずりながら近づいていく。
理人さんは仰向けのまま濡れそぼった捨て犬のように健気に震えているけれど、兄貴には(俺にもだけど)最早まったく効果はない。
――分かってるよな?
兄貴の背後にモノローグが浮かんでいるとすれば、きっとこうだ。
「はい、じゃあ右腕まくってね」
「……」
「よし、えらいえらい」
小さな子供にそうするように、葉瑠兄は理人さんの頭を撫でた。
理人さんのへの字口が、小刻みに震える。
「じゃあ、消毒からな。アルコールは入ってないけど、ちょっとヒヤッとす……」
「や……ッ!」
「……」
「やっぱり嫌だぁ……ッ」
はあああああぁぁ……と響いたため息は、きっちりふたり分。
理人さんはギュッと目を瞑り、左腕で右腕をがっちりとガードしてしまった。
ああ、やっぱりか。
あれよあれよと……なんて風にはいかなかったか。
そうかあ……って。
思いっきり予想通りだよ、こんちくしょう!
「英瑠、ちょっと」
「ん?」
葉瑠兄がふいに立ち上がり、なぜか俺を手招きする。
狭い診察室の隅に寄ると、兄貴が口元を耳に寄せてきた。
「ひとつ、提案があるんだが……」
ふむふむ。
なになに?
えっ……?
「えぇッ!?」
な、なんだって!?
「そういうことだから、協力しろよ」
「や、でも、それはさすがに可哀想じゃ……」
「お前がそういう態度じゃ、俺がいつまで経っても昼飯たべられな……いや、理人くんが予防接種受けられないままになるだろ」
「そう、だけど……」
「それで万が一インフルに罹患してみろ。辛いのは理人くんなんだぞ。高熱に浮かされて、息も絶え絶えにお前の名前を呼ぶ理人くんを見て、お前は耐えられるのか?」
――はあ、はあ……さ、さとうくぅ……ん。
――大丈夫ですか、理人さん。
――のど、かわいた……みず、のませて……?
――いいですよ。
――んッ……も、もっと……。
――はい、あーん。
――そっち、じゃなくて……。
――え?
――ここ……なんとかして?
――えっ……ま、理人さん……?
――も、あつくて……たまんない……。だから、さわって……?
――理人さんッ!
――あん……!
……じゃなくて!
「ま、まあ、そう言われると……」
「だろ? 段取りは分かったな」
「う、うん……」
ごめん、理人さん!
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