ひとりでできるもん!

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 いざ!  意を決して振り返ると、理人さんの全身がビクリと跳ねた。 「な、なんだよ?」  慄く理人さんに、葉瑠兄が椅子のキャスターを転がしながらシャーッと近づいていく。  そして音を立てて止まると、不気味すぎる笑みを浮かべた。 「理人くん」 「は、はい……?」 「理人くんは、注射器が見えるから嫌なんだろ?」 「えっ」 「針が見えるから怖いんだよな?」 「え、あ、た、たぶん……?」 「よし。じゃあ、うつ伏せになって」 「な、なんで……」 「そうすれば見えないだろ? ほら、早く」 「あ、は、はい……」  理人さんは、のそ……のそ……と身体を起こした。  そしてくるりと反転したところで、不安まみれの視線で俺を見上げてくる。  うーん、これはまずいなあ。  濡れそぼった捨て犬の上目遣いは、心臓に悪すぎる。  それに、  いじらしく揺れる潤んだアーモンド・アイの中心に、俺がいる。  ――もうやめてやれよ。  天の声が、俺の決心をこれでもかと揺さぶってきた。  それが悪魔の囁きなのか、天使の導きなのかは、もうよく分からない。 「英瑠、腕」 「……うん」  ごめんなさい、理人さん。  これはもう、本当に、意地悪でもなんでもなく。  理人さんのためだから。 「佐藤くん……?」  両腕を取り伸ばしたところで手首を押さえると、理人さんの瞳が揺れた。  ああもう、だから。  やめて。  そんな目でこっちを見ないで!  頑丈に塗固めたはずの決意が鈍りに鈍るだろ……! 「しっかり押さえとけよー」  俺の葛藤を知ってか知らずか、兄貴は無機質な声で言う。  簡易ベッドがミシミシと、不吉な音を立てて軋んだ。  振り返ろうとする背中を制し、葉瑠兄が理人さんの脚の付け根に跨がる。 「は、葉瑠先生?」 「ちょっとズボンとパンツ下げるなー」 「な!? な、なな、ななななんでっ……」 「お尻に打つから」 「えっ……えっ!?」 「ちょっと冷たいぞー」 「えっ、あの……ぅひゃ!」 「んじゃ、チクッとするけど絶対に動くなよー」 「は!? ちょ、待っ……いっ!?」 「お薬入れるから、痛くても我慢しようなー」 「んっ……んんんぅ……っ」 「はい、おしまい」  す、すごい。  さすがプロの手際だ……!  かかった時間は、ちょっきり3秒だ(……たぶん) 「理人さん」 「……」 「終わってみれば、ほんの一瞬だったでしょ?」 「……」 「理人さん……?」  元々形の良いお尻をさらに引き締めたまま、理人さんは微動だにしない。  まさか息絶えた……なんてことはないだろうけど。 「よし、もう起き上がっていいぞ」  理人さんのズボンをたくし上げ、葉瑠兄がようやくベッドから下りる。 「うわッ!?」  途端に、理人さんがものすごい勢いで俺に抱きついてきた。 「え、えーと……理人さん?」 「……」 「大丈夫ですか?」 「……」 「生きてる……?」 「腕より痛かったぁ……ッ」  濡れた吐息と一緒に、鼻にかかった甘い声が、俺の首筋に降り注ぐ。  え、まさか。  ほんとに泣いてる? 「……プッ」 「笑うな!」 「いい年して駄々捏ねたりするから」 「いい年って言うな……!」  理人さんが、耳元でキャンキャン喚き始めた。  どうやら、お尻にブスッとやられたショックはすっかり吹き飛んだらしい。 「英瑠」 「ん?」  理人さんを首にぶら下げたまま視線を上げると、葉瑠兄が呆れていた。  はあ……と漏れたため息には、安堵と疲労が入り交じって聞こえる。 「これ、会計に出す紙な」 「ああ、サンキュ」 「副反応が心配だから、三十分は院内にいろよ? それで何もなかったら、帰っていいから」 「わかった」  俺が頷くと、葉瑠兄はまるで犬を追いやるようにシッシッと手を振った。  理人さんが午前ラストの患者だから、早く休ませろと言ってるんだろう。 「じゃあ、行きましょうか……理人さん?」  そのまま歩き出そうとした俺を引き止めるように、理人さんは絡めていた腕を解いた。  スン……と鼻を鳴らし、忙しなくキーボードを叩いている葉瑠兄の背中を見下ろす。 「……葉瑠先生」 「んー?」 「ありがとう……ございました」  葉瑠兄の白衣が翻った。  俺と同じ形の目を見開いて、への字にひん曲がった唇を尖らせた理人さんと、その隣で必死に笑いを堪えている俺を交互に見る。  ふうううぅぅ……と盛大に響いたため息に込められているのは、きっとさっきまでとはまったく違う意味。 「はい、よく頑張りました」  葉瑠兄が目尻を垂らすと、理人さんはまたかわいらしく鼻を鳴らした。
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