深淵の孤独

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 怯えるだけの状態から脱した頃、潜り込んだ掛け布団の隙間から、枕元に置いたケータイのランプが点滅しているのが見えた。マナーモードを解除していなかったせいで、着信に気がつかなかったらしい。  全身の震えはやんでいる。冷めやらない恐怖と不安に、心は不安定なままだが、僅かながらゆとりも生まれていた。  掛け布団から全身を出し、室内を見回す。異常は認められない。ドアに鍵をかけていたのだから当然だ。ケータイを確認すると、午後二時を回っている。  着信の詳細を確かめる気にはなれなかった。有り得ないとは思いながらも、少女を殺害し、頭部を切断し、正門の上に置いた犯人が、電話をかけてきたのかもしれない、という一抹の懸念を抱いたせいだ。  部屋に熱が籠もっているのか、感情の乱れが体温を上昇させているのか、蒸し暑くて堪らない。着たままだった制服の上下を脱いだところで、全身が汗まみれなことに気がつく。シャツも脱いで下着一枚の姿になり、真新しいシャツをタオル代わりに、丹念に拭い取る。黙々と単純作業を行う時間は、微力ながらも、精神状態を安定させるのに寄与してくれた。  下着姿の僕はベッドの縁に腰掛ける。何を思案するわけでもなく、視界に映る景色をただ眺める。  空っぽの頭に浮かび上がったのは、首から上だけの姿になった少女の青白い顔。  慄然として身震いを禁じ得なかった。僕が人間の頭部を持ち帰ったのは紛れもない事実で、持ち帰ったものは今もクローゼットの中にある。逃れようのない現実を突きつけられ、全身の筋肉も脳髄の働きも硬直を強いられる。  しかし、ただ怯えるだけの状態に退行することはない。時の経過により、多少なりとも冷静さを回復したおかげで、不完全ながらも現実に向き合える。  僕が向き合うべき現実――クローゼットの中の少女の頭部。  考えるだけでも馬鹿馬鹿しいが、物事には順序というものがある。手始めに、事実を事実として胸に刻んでおこう。  少女の頭部は、紛れもなく人間のもので、何者かの手によってあの場所に置かれた。空から降ってきた恐怖の大王などでは断じてない。  それでは、  あれを正門の門柱の上に置いたのは誰なのか。わざわざあの場所に置いた目的は何なのか。誰の頭部なのか。すぐに思いつくだけでも、疑問点は三つもある。  もっとも、そのうちの一つは疑問とは見なせない。列挙してみせたうちの最後の疑問の正答を、僕は哀調を帯びた確信を持って述べられる。  昨日、僕が暮らすT県T市に住む小学生の女児が行方不明になる、という事件が発生した。 『三年前の大阪の毒ガス事件といい、京都の震災といい、関西で嫌な出来事が続くなぁ』  夕食をしたためている最中、全国ニュースで流れた一報を見て、父親が家族に向かってそう言ったのが印象に残っている。  片や和製カルト宗教団による無差別テロ行為。片や大規模な自然災害。同じ一九九六年に発生し、多数の死傷者が出たというだけで、何の因果関係もない二つの出来事を、大人は結びつけて語りたがる傾向があるらしい。授業中に無駄話をする常習犯である四十代の男性国語教師も、豪雨の夕刻にスーパーマーケットの野菜売り場で立ち話をしていた中年女性二人組も、ワイドショー番組に出演していた名門大学の名誉教授も、みんなそうだった。  海外で発生した紛争や疫病の報道は聞き流すが、日本列島を縦断する台風の動向は気にかける僕は、一定以上の関心をもって、夜七時の全国ニュースで報じられたその事件に向き合った。そのおかげで、行方不明になった女児の簡単なプロフィールくらいならば諳んじられる。  女児の名前は、宮下紗弥加。今春に私立小学生に入学したばかりで、七歳。昨日の午前十時頃、「友達の家に遊びに行ってくる」と母親に告げて家を出たのが、最後に目撃された姿だという。  小学一年生の女児が丸一日以上行方不明。由々しき事態なのは間違いないが、彼女の身に最悪の事態が起きたと結論するのは早計だ。  ――と、言いたいところだが。  僕は今朝、僕が通う県立S中学校の正門の門柱の上に、幼い女の子の頭部が置かれているのを見た。自らの手で触れ、死んだ人間の冷たさを直に感じ、精巧な作り物ではないことも確認済みだ。  宮下紗弥加は何者かに殺害され、頭部を切断され、校門の上に放置されたのだ。  晒し首という刑罰が江戸時代に存在したが、宮下紗弥加が死刑よりも重い罰を受けなければならないほどの悪行を働いたとは、到底思えない。小学一年生の無垢な心と未発達の体では、実行したくてもできないはずだ。  掛け替えのない無辜の命が、誰かの手によって永遠に抹消され、亡骸までもが弄ばれたのだ。  昨夜のニュースで、宮下紗耶香の母親が、報道陣に向かって涙ながらに娘の無事を祈っている映像を見た。かわいい盛りの愛娘が行方不明になったのだ。母親はきっと今も、押し潰されそうな不安と哀しみの中、娘の無事を一途に願っているに違いない。  しかし、現実は神よりも非情だ。  母親が無事を願っていた娘の命は、何者かの手によって奪われた。のみならず、晒し首にされた。さらには、どこの馬の骨かも分からない男子中学生に持ち帰られ、埃だらけのクローゼットにぞんざいに放り込まれている。  自らの所業を棚に上げて僕は思う。  こんな現実、あまりにも哀しすぎる。  重苦しい空気が室内に蔓延している。無力感が滾々と湧出し、心を暗澹たる純黒に塗り潰していく。我が子の現状を知ったら、宮下紗弥加の母親はどんなに嘆き、悲しむだろう。身につまされて、つまされて、つまされて、目の奥が灼熱地獄と化し、心臓が物理的に痛む。現実と向き合うことを放棄したい。そう切に願った。  それでも面と向かわなければならない。懸案を先送りにしたところで、状況が好転する可能性は絶望的だ。困難でも、気乗りがしなくても、根気強く解決策を模索していくしかない。  とにもかくにも、頭部をどう処理するか。  頭部入りの体操着入れを提げたまま母親や莉奈と会話をした際の、あの生きた心地がしない、酷く長く感じられた時間を思い返す。  あの物体が手元にある限り、僕は安らげない。家族に発見されれば、僕は破滅だ。早急に問題の解決を図らなければ。  深遠なる謎を解き明かさなければならない課題を突きつけられた人間は、その謎を構成する物体の一つをまずは手に取ってみるのではなく、途方に暮れてただ立ち尽くす。平々凡々の中央に位置する僕も、その御多分に漏れなかった。  唯一違ったのは、事態があまりにも深刻だったために、危機感に背中を押されたこと。  自画自賛したくなるくらい粘り強く、問題解決のための鍵を探し求めた。落ち着け。自暴自棄にだけはなるな。余計なことは考えずに、考えるべきことだけを考えろ。何度も何度もそう自らに言い聞かせながら。  絶望感漂う暗中模索が続いた。それにも疲れて、悪く言えば気の緩みが生じ、よく言えば肩の力が程良く抜けた。心身がそのような状態になった時にありがちなことだが、初歩的にも思える疑問が唐突に浮上した。  宮下紗弥加の後ろ髪に結ばれていたもの。  僕はそれを、白いリボンのようなもの、と認識した。白いリボン、ではなく、白いリボンのようなもの、と。  リボンではないとしたら、何が使われているんだ?  死体にまつわる未知の事実を確認するのだから、怖さは当然ある。ただ、思案は煮詰まっている。気分転換、という言葉を使うのは呑気すぎるようだが、少し体を動かしたかった。  ベッドからクローゼットの前まで移動し、ドアノブに手をかけたところで、僕は硬直してしまう。  腰を抜かすほどに恐怖し、嘔吐するほどに嫌悪した物体なのだから、無理もない。しかし、確認してみない限りは次のステージへは進めない。口腔の唾を嚥下して腹を括り、ひと思いにドアを開く。  仄暗く、埃っぽい空間の片隅に、歪に膨らんだ体操着入れが置かれている。頭部の輪郭が浮き出ているわけではないが、袋に頭部を入れた張本人である僕には、いかにもその物体が入っているらしく見え、青臭い不快感を喉の奥に覚えた。  その場に片膝をつき、床に擦らないように注意を払いながら引っ張り出す。その程度の作業をこなしただけで、額にべたついた汗が滲んだ。手の甲で拭い、深々と息を吐く。袋の口を開ければ、頭部に起因する臭いが解き放たれる。自室で心置きなく呼吸できるのは、これが最後かもしれない。  袋の口に両の人差し指を差し込み、慎重すぎるほどに慎重な手つきで左右に開いていく。穴の面積が徐々に広がり、比例して、視界に映る髪の毛の黒色も拡大していく。  一部分ではあるが頭部を、実に数時間ぶりに見たことに対する恐怖は、意外にもなかった。恐れていた悪臭も感じ取れない。二つの結果に勇気づけられ、これまでの慎重さが嘘のように素早く、口を限界まで広げる。皮を剥くようにして、頭部を八割方露出させる。  髪の毛に結ばれている白いものは、やはりリボンではなさそうだ。恐る恐る触れて見ると、冷ややかで固い。紙の手触りだ。  ほどきにかかったが、結び目が固く、容易には外せない。手間取っている間も、両手は髪の毛に触れ続けている。死人の一部と肉体的に接触するのは、当たり前だが快いものではない。炎天下で立ち働く肉体労働者のごとく、汗を滂沱と垂れ流しながらの作業となる。  漸く、結び目と結び目の間に指を差し込むことに成功した。そのまま指を小刻みに動かし、結束を緩めていく。  リボンがほどけ、ひとまとめになっていた後ろ髪が広がったのを見て、全身に鳥肌が立った。  リボンのようなものの正体は、白くて厚みがある、細長い紙製の物体だった。薄い層が折り重なることで厚みが生じているらしい。  広げてみると、A4サイズのコピー用紙らしき紙だ。真っ赤な文字で埋め尽くされている。定規か何かで引いて書いたらしく、一画一画が直線的だ。  早速目を通した。 『先日、とうとう一つの小さな命を奪った。悲願だった殺人を達成した今、とても晴れやかな気分だ。掛け替えのない生命を永久にゼロにする――この世界で最高の快楽だ。だが、私の心は依然として満たされていない。近々、さらなる命をこの手で奪おう。凶行はもう誰にも止めることは出来ない。無力な愚民共よ。せいぜい隣人を疑い、震えながら朝を待つがいい。』  ビッグバン後の宇宙のように、神速かつ際限なく広がっていきそうな恐怖を、たった一本の釘が繋ぎ止めている。その釘が、まるで身長の倍もあり、頭頂から足の裏にかけて貫いて床に深々と突き刺さっているかのように、紙を手にしたまま身じろぎ一つできない。  殺人行為を働いたからには、何らかの理由があるはずだ。犯行声明文を添えたからには、誰かに伝えたいことがあるはずだ。この文章には、犯人の動機が婉曲に記述されている。  読み終えて、真っ先に考えたことがそれだった。隠されているものを読み解くべく、気は進まないながらも、文章を繰り返し読み返す。  遺体を切断し、その一部を人目につく場所に放置するという行為は、個人に対する強い恨みと殺意の表れと解釈できる。しかし、文中に宮下紗弥加の名前はない。彼女を恨んで、あるいは逆恨みをしての犯行ではないのだ。一言も言及されていないのだから、被害者の家族から金銭を得るのが目的でもないだろう。では、何のために? 「無力な愚民共よ」という一文が目に留まり、はたと気がつく。  犯人は、不特定多数の人間に呼びかけている。  犯行声明文の内容からも、犯行声明文を書くという行為からも、犯人は己が働いた悪行に対して、後悔や反省の念を抱いているとは思えない。殺人行為がいかに快感かなど、己の特異な嗜好に言及した下りからは、己の異常性や残虐性を誇りに思っているかのような印象を受ける。同時に、異常で残虐な犯行に怯える「無力な愚民共」を嘲笑ってやろうという、嗜虐的な欲求も見え透く。  己の快楽のために悪逆非道な行為を働き、それをやってのけた異常な己を世間に誇示することで、同時に自己顕示欲も満たしたい。  要約すれば、そのような思惑が犯人にはある、と推断する。  しかし、僕が頭部を持ち帰ったことにより、計画は根底から覆された。  人目につく場所を選んで置いたにもかかわらず、頭部が誰からも発見されない事態は、殺人鬼にとっては想定外のはずだ。  犯人は今、成果が大々的に発表されるその瞬間を、テレビの前で待ち侘びているのかもしれない。  しかし、宮下紗弥加行方不明事件が取り上げられることはあっても、彼女の遺体が発見されたという速報はいつまで経っても流れない。  歓喜の瞬間を先延ばしにされ続け、殺人鬼は次第に苛立ち始める。あの場所に置いた頭部が翌朝になっても発見されないのは、おかしい。切断された人間の頭部が発見されたにもかかわらず報道されないなど、有り得ない。  そして、何者かの手によって自らの計画が狂わされたと、やがて悟る。  予想外の不愉快な事態に対して、犯人はどのような対応を取るだろう? 残虐非道な殺人犯は、自らの邪魔をした人間に対して、どのような行動を起こそうと考えるだろう?  殺す。  計画を邪魔された報復として、計画を邪魔した人間を殺す。  恐らくは、そのような結論に至るはずだ。  要するに、次の被害者が僕だとしても、何らおかしくない。  気がつくと、僕の体は微弱な振動に見舞われている。  僕はどうして、切断された人間の頭部を持ち帰るなどという奇行を働いたんだ? 常識と良識に従い、警察に通報しておけばよかった。そうすれば、厄介なものを抱え込まずに済んだのに。頭部に付着している何らかの情報が手がかりになり、事件は早期に解決に向かったかもしれないのに。  僕が余計な真似をしたせいで、犯人逮捕が遠のいてしまった。  のみならず、新たな犠牲者が出る可能性が高まった。  そして、その新たな犠牲者の最有力候補は、僕。  考え得る限りにおいて、最悪の行動を僕は選択してしまったのだ。  震えは次第に激しくなる。上下の歯が小刻みにぶつかり、臆病と題された馬鹿げた音楽を奏でる。  今からでも、頭部を元の場所に返しに行くべきだろうか?  無理だ。中学校には既に生徒が登校しているし、教員が出勤している。  手遅れなのだ。今となっては、何もかも。  部屋を満たす静けさが感情を増幅させる。のうのうと座っていられなくなり、慌ただしくベッドに潜り込む。  恐怖は静かに、緩やかに、着実に心身を蝕んでいく。汗腺が壊れてしまったかのように大量の汗が出る。歯が鳴るのを食い止められない。  大丈夫だ。宮下紗弥加行方不明事件を受けて、警察はパトロール態勢を強化したとニュースで報じられていた。いくら何でも、そんな状況下で、そう簡単に第二の犯行に踏み切れるはずがない。それに、復讐するといっても、犯人は僕が頭部を持ち去る場面を直接見たわけではない。報復の対象をまだ特定できていないはずだ。  今日明日のうちに僕が誰かに殺されるなんて、有り得ない。事件解決を遅らせたのは心の底から申し訳なく思うし、持ち帰ってしまった頭部をどうするかという問題はあるが、少なくとも僕の命は、  自らに言い聞かせる言葉は、そして呼吸は、にわかに浮上した最悪の可能性に停止を余儀なくされる。  八時間ほど前、正門の上の頭部を発見して程なく、近くの叢が揺れたような気がした。  気が動転し、正気ではなかったからこそ、有りもしないものが有るように感じられただけだ。これまではそう解釈していたが、気のせいではなかったとしたら? 頭部が発見される瞬間を見ようと、第一発見者は誰なのかを見届けようと、犯人が正門付近に身を潜めていたのだとしたら?  ひいっ、という短い悲鳴が唇から漏れた。掛け布団の中に全身を密閉し、胎児のポーズを取る。  最早推理ごっこどころではなかった。宮下紗弥加の頭部を目の当たりにした直後のように激しく身を震わせながら、僕に悪影響をもたらす一切合財が僕のもとから去ることを、ただただ懇望し、ただただ哀願した。  人は絶対に死ぬ。この世は夢幻でしかない。  一言一句正確に記憶しているわけではないが、三年前、地下鉄の車内で化学兵器を散布したテロ事件の首謀者が、そのような大意の言葉を自身の信者に対して語った、というエピソードを聞いたことがある。  人間はなぜ、死ぬのが怖いのだろう。  自らの存在が終焉するのが耐え難いからか。夢のような幻を終わらせるのが嫌だからか。永遠に夢を見続けていたいからか。  ベッドの上で震えながら、そんな愚にもつかないことを延々と考えた。
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