深淵の孤独

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 どれほどの時間が流れただろう。  後悔し、不安がり、怯えるのにも疲れてきた頃、  突然、玄関ドアが開く音が聞こえた。  危うく叫ぶところだった。声を辛うじて抑え込んだものの、その代償とでもいうように、身動きが取れなくなる。  宮下紗弥加を殺した犯人が、彼女の頭部を持ち去った報復を実行するために、僕の自宅を訪れたのでは? そんな考えが頭に浮かび、キャパシティを超えた恐怖に襲われたのだ。  では、実際は? 階下の物音を聞き漏らすまいと耳を欹てる。  ドアが閉まる音がして、続いて聞こえてきたのは、「ただいま」という莉奈の声。  金縛りが僕を見放した。ケータイのサブディスプレイを確認すると、午後四時を回ったばかりという時刻。  緊張も恐怖もいくらか緩んだが、完全には払拭されていない。報復を恐れる気持ちが、莉奈に感づかれないように、あるいは莉奈を脅すことで、殺人鬼が楠部家への侵入に成功した可能性を疑ったからだ。  足音が階段を上ってくる。一対の足が奏でる響きに聞こえたが、精神状態は落ち着きを取り戻してくれない。僕の部屋のドアの前で音が止まり、息を呑む。 「お兄ちゃん、起きてる? 昼にメールしたんだけど、見てくれた?」  障壁越しに聞えた莉奈の声はナチュラルだ。なおかつ、普段の生意気な印象は全くない。  莉奈は、心の底から僕の体調を案じてくれている。  理解すると同時、殺人鬼の幻影は跡形もなく消失した。安堵の材料を一度に二つも提供され、不覚にも泣きそうになる。  莉奈と話がしたい。ドア越しにではなく、直接顔を合わせて。  ベッドから腰を上げると、体が少しふらついた。ドアへ向かおうと一歩踏み出した瞬間、視界の端に映った映像に硬直を余儀なくされる。  宮下紗弥加の頭部が放置されているのだ。目を惹く血色の文字で記された、冗談にしては笑えない内容の犯行声明文も、表を上にしてその傍らにある。  莉奈に見られてしまう前に、頭部をどうにかしなければ。その一念が意識を支配した。ドアには鍵がかかっているのだから、こちらから開錠しない限り、見られたくないものを誰かに見られることはない。そう承知しながらも、虚を衝かれた心は極度に焦り、恐怖し、動転していた。 「返信する元気もなかったの? ていうか、今起きてる? おーい」  ノックの音がした。返事があるまで粘るつもりなのかもしれない。そう思うと、掻きむしりたくなるほど腹立たしい。それ以上に、恐ろしい。  一秒でも早く、部屋の前から去ってくれ。数秒前までの切望とは裏腹に、ただそれだけを願う。頭部と犯行声明文を速やかにクローゼットに隠匿し、何食わぬ顔でドアを開ける。それが最善の選択だと答えは出ていたが、何度命じても体が動いてくれない。  祈るしかなかった。殺人鬼の襲来に怯えて部屋に閉じこもる、ホラー映画の登場人物に感情移入をして。体を意のままに動かせたならば、胸の前で両手を組み合わせたに違いない切実さで。濁世に生まれ落ちたばかりの赤子のように、腹の底から声を出して泣きたい気持ちで。 「こっちは心配してるんだから、返事くらいしてよ。そう言えば、今日はお昼食べた? 食べていないんだったら――」 「莉奈!」  階下からの大声が莉奈の声を遮った。母親だ。 「寝てるんだから、そっとしといてあげなさい。夕食作りを手伝ってほしいから、着替えてキッチンまで来て」 「あ、うん。すぐ行く」  足音が遠ざかり、静けさが耳孔に帰還した。  胸を撫で下ろしたのも束の間、新たな恐怖が心を苛み始めた。音一つない静かな環境が恐ろしかったのではない。平和で平穏な無音状態も、いつかは破られること。その瞬間が訪れるのが、具体的にいつなのかが分からないこと。それが恐ろしくなったのだ。  さらにはその恐怖が、さながら磁石のように、別個の恐怖を他所より誘引してきた。殺人鬼が復讐のために僕の自宅に乗り込んでくるのではないかという、あの突拍子もない懸念が再燃したのだ。  頭部の残像に怯えていた時は、元凶である映像を脳裏から排除することで、その感情を克服できた。しかし、殺人鬼の幻影の場合、元となる映像はない。あるいは、万華鏡のごとく変幻自在に変化する。従って、根治は不可能。実質的に対処のしようがない。  常に神経を研ぎ澄ますことを強要され、体力と気力を延々と磨り減らし続ける。そんな最悪な状態に僕は陥っていた。  呼びかけには無反応だったと、莉奈は脚色なく母親に報告したのだろう。母親はその旨を、やがて帰宅した父親に告げたのだろう。そっとしておくのが最善策だと判断したらしく、莉奈の訪問以降、誰も僕の部屋を訪れなくなった。  莉奈が部屋のドアをノックした時は、一刻も早く去ってくれと願ったが、一人きりでいるのはやはり心細い。僕は身勝手にも、恥知らずにも、家族たちの薄情さを呪詛した。心の底から憎んだわけではない。許容量を超えた負の感情に屈しないためには、毒をもって毒を制するしかなかったのだ。  やがて陽は沈み、宇宙空間のように暗く、冷たく、果てしない、窒息しそうな夜が到来した。時間と共に薄れていた殺人鬼に対する恐怖は、あろうことか、夜陰の力を借りて勢力を取り戻し始めた。  いつになったら僕は安らげるんだ?  叫ぶような問いかけに、レスポンスはない。未知の惑星に不時着した宇宙船の乗組員のように、僕は孤独だった。遅すぎる時の流れがもたらす地獄のような苦しみに、ひたすら耐えた。  一部の人々がノストラダムスの大予言に関心を持つのは、恐怖の大王が人類に恐怖をもたらすと考えているからではない。人類に死をもたらすとしか思えないからこそ、否応にも関心を持たずにはいられないのだ。  恐怖に苛まれ、死の予感に怯えながら、僕はそう分析する。  一方で、その分析は根本的に間違っているような気もした。
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