深淵の孤独

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 カーテン越しに見え透く空が、太陽由来の明るさに染め上げられてから、秒針は幾千回時を刻んだだろう。  時間の感覚は鈍磨している。ヘッドボードのケータイのサブディスプレイを確認したり、机上の置き時計を一瞥したりする気力すらない。もうじき夕焼けが見られる時間帯かもしれない、と他人事のように思う。  ベッドの上に両脚を投げ出して座り、壁にもたれ、反対側の壁の白亜を廃人のように眺めている。あれほど深く被っていた掛け布団は、今や完全に体から外れ、半ば床に落ちかかっている。  全身の震えは収束している。殺人鬼の幻影は出現しなくなった。  ただただ心細かった。両親と莉奈を逆恨みする気持ちは、今となっては微塵もない。血が通った人間と交流したかった。心ならずも拒絶した優しさを、今度こそ受け取りたかった。  あちらが会いに来てくれないなら、こちらから会いに行くしかない。  演技がかったような緩慢さでベッドから下りる。体がふらつき、丸一日以上何も口にしていない事実に気がつく。一階に下りる理由が二つになったのだから、もう下りるしかない。  着替えを取り出すべく箪笥へ向かおうとして、裏返った声が飛び出した。  宮下紗弥加の頭部が床に放置されている。犯行声明文共々、仕舞い忘れている。  猛然とドアへと走り寄り、ノブを掴んで揺さぶる。施錠されている。幻影と格闘している間に何者かが部屋に侵入したのでは、という懸念が晴れ、肩の力が抜けた。危うくベッドに倒れ込みそうになったのは、あるいは、睡眠と栄養の不足による体力の低下も一因かもしれない。  頭部を体操着入れに入れ直す。犯行声明文を再び髪の毛に結ぶ気にはなれず、小さく畳んで袋に仕舞い、クローゼットの奥に押し込む。昨日と比べて、嫌悪感を覚えるなりに頭部に触れる抵抗感は少なくて済み、指先が微震するなりに手際はいい。手早く着替え、ケータイをジーンズのポケットに押し込んで部屋を出る。  廊下とリビングを仕切るドアに達した。耳を澄ませずとも、テレビの音声が微かに聞こえてくる。  人がいる。  家族がいる。  一人ではない。  両の瞳が淡く潤んだ。人間に会いたい。その一念に促され、空間と空間を隔てるものを開く。 「あら、龍平」  ダイニングテーブルに着いていた母親が、肩越しにこちらを振り返り、素っ頓狂な声を上げた。読んでいた地方紙の夕刊を、悪事を目撃されたかのように急ぎがちに畳む。 「足音も立てずに下りてくるから、びっくりした。それよりあんた、体調の方はもう大丈夫なの?」  僕は小首を傾げる。母親は席を立つ。 「そんなところで突っ立ってないで、座りなさい。心配したのよ? お腹が空いたら下りてくるだろうと思って放っておいたけど、ずっと部屋に籠もりきりだから。昨日、学校にやけに早く行ったと思ったら、真っ青な顔して帰ってきたけど、何があったの?」 「莉奈は?」  自分の席に腰を下ろし、質問を無視して質問を投げかける。昨日の出来事に触れられたくなくて、話を逸らそうとしたのか。本当に莉奈のことが気がかりだったのか。 「莉奈なら学校よ。もう四時を回っているから、そろそろ帰ってくるんじゃない。ずっと寝ていたから、時間が分からなくなっているのね」  母親は口元に皺を作り、シンクで手を洗う。体調不良という事情を斟酌し、質問を無視した事実を看過してくれたらしい。 「お腹空いたでしょう。すぐに食べられるものを作るから、ちょっと待ってなさい」  タオルで手を拭うと、今度は調理用具の用意を始める。  食欲はないと伝えようとしたのだが、声が掠れて「食欲」としか言えなかった。その一言も、音量の小ささのせいで母親の耳には届かなかったらしく、冷蔵庫を開けて食材を取り出し始める。  ドアの隙間からミネラルウォーターのペットボトルが見えた瞬間、自室に籠もっている間、一滴も水を飲んでいないことに気がついた。途端に、舌が口蓋に貼りつく感覚を覚えた。唾を生成し、口内に行き渡らせて乾燥を最低限解消し、邪魔なものを呑み込む。 「いいよ、作らなくても。もうすぐ晩ご飯だから、その時に食べる。それより、水ちょうだい」 「あら、そう? お水ね、はいはい」  母親はミネラルウォーターをグラスに注ぎ、ダイニングテーブルまで持って来てくれた。去りゆく背中に向かって心中で謝辞を述べ、一口飲む。軟水の滑らかな喉越しに、無償の愛を施されたことへの率直な喜びが湧き、口角が弛緩する。 「お母さんは晩ご飯の支度をするから、あんたはここでゆっくりしてなさい」  柔らかい口調で告げ、作業を再開する。僕のために特別に、ということではなく、まだ午後五時前ではあるが、夕食の準備に取りかかるらしい。  テレビでは夕方の情報バラエティ番組が流れている。日本における携帯電話の人口普及率が五十パーセントを超えた、という調査結果が紹介され、コメンテーターが意見を述べている。僕には全く興味がない話題だ。  グラスを空にして椅子から立ち上がる。肩越しに視線を投げかけてくる母親の姿を目の端に映しながら、リビングの白革のソファに腰を下ろし、ジーンズのポケットからケータイを取り出す。  通知を確認すると、メールが二通届いている。一通は莉奈からで、もう一通の差出人は友人の筧ナオ。  莉奈からのメールは、兄の体調を心配する内容だ。元気づけるためか、絵文字や顔文字がいつもにも増して使用されている。少し照れくさいが、嬉しい一通だ。もうすぐ帰宅する時間なので、礼はその時にすることにする。  筧からのメールには、その日学校で起きた出来事や友人との会話のレポートが、いつも通りフランクな調子で綴られている。それに紛れさせるように、僕の体調を気づかう一文が挿入されている。  あいつらしいな。思わず笑みがこぼれた。  普段は馬鹿なことばかり言い合っている友人に、率直な喜びと感謝の意をストレートに表明するのは照れくさい。打ち込んだばかりの返信メールを見返すと、文章が少々堅苦しくなっている。冷やかされるかもしれないと思いながらも、一か所あった打ち間違いを訂正するだけにして、送信する。  ケータイをポケットに押し込み、ソファに横になろうとした矢先、仕舞ったばかりの物体が震えた。取り出して開いてみると、筧からの電話だ。 「もしもし。ナオ、反応早いな」 「龍平、お前、大丈夫か? 中々返信が来ないから心配したんだぜ」  ふざけているわけでもないのにへらへらしたこの感じ、紛れもなく筧ナオだ。 「体調悪くて、ずっと寝てたんだ。さっき起きたばっかりで」 「ずっとって、昨日からってこと?」 「ああ。一度も目を覚ますことなく、というわけではないんだけど」 「もしかして重症? 声を聞く限り、そうでもない感じだけど」 「元気は元気だよ。寝てばかりだったから、頭はいまいち冴えないけどね」  前もって質疑応答のシミュレーションをしていなかった割には、無難な回答ができている手応えがあった。 「それはそうと、グッさんはどうした? あいつから連絡が来てないんだけど」 「グッさんなら、休んでるのに連絡しても迷惑だろうから、だってさ」 「単に面倒くさいだけだろ、あいつの場合は。この二日間で僕のところに来たメール、たったの二通だぜ? 妹とお前の二通。いくら何でも寂しすぎる」 「実は、俺もそっとしておこうと思ったんだけど、お前宛の伝言を預かっていたから」 「誰から? グッさん?」 「いや、違う。でも、お前の知ってるやつだよ。さて、それは一体誰でしょう?」  笑いを堪えているような声での出題だ。  突然提示された謎に、勿体ぶるような言い方。親しい者たちと言葉を交わす中で忘れかけていた黒い影が、胸奥の暗がりで不穏に蠕動している。 「全然分からないな。誰? ていうか、何だよ、伝言って」 「伝言っていうか、頼み事かな。北山司から、お前のメアド教えてほしいって言われて」 「北山? それって、同じクラスの?」  筧は一言「そうだよ」と答えた。それ以外に誰がいるんだよ、という風に。  北山司。同じクラスにその名前の女子生徒がいるのは知っているが、北山司個人に対する印象は極めて薄い。クラスメイトの女子、という情報以外は一切知らないと言っても過言ではない。言葉を交わしたことさえあったかどうか。 「昨日学校から帰ろうとしていたら、廊下で声かけられて、頼まれてさ。教えようかとも思ったんだけど、本人の許可を取らないのは流石にまずいな、と思って。龍平、お前、明日学校来られんの? 無理なら明日、俺が北山に教えてもいいけど」  僕は返答に迷った。女子からメールアドレスを求められるのは初めての経験だから、どう振る舞えばいいかが分からない。それもあるが、上下の唇が接着している最大の要因ではない。  不安だ。僕にとって歓迎するべきではないことが起きようとしているのではないか、という不安。 「なあ、何で黙ってんの?」  ほんの少し強まった筧の声に、我に返る。事態を深刻に考えすぎているのだ。そう己に言い聞かせる。 「結局、龍平はどうしたいんだよ」 「僕がやる。明日は学校に行くから、僕から北山さんに教える」 「……お前、どうした?」 「どうしたって、何が」 「いや、声の感じが嬉しそうじゃないな、と思って。女子からメアド訊かれたら、喜ぶのが普通だろ」  玄関のドアが開く音が聞こえた。それに続いて「ただいま」という声。莉奈が帰宅したのだ。  ちぐはぐになり始めている親友との会話を、妹に聞かれたくない。 「またちょっとしんどくなってきたから、もう切るよ。北山さんの件に関しては、そういうことだから。じゃあ、また明日」  食い下がってくる気配が感じられたが、気づかないふりをして通話を終わらせる。  リビングのドアが開き、セーラー服姿の莉奈が現れた。昨朝以来の兄の姿を目にした瞬間、明かりが灯るように笑顔になる。 「お兄ちゃん、起きてたんだ。何か久しぶりだねー。死んじゃったのかと思ったよ」 「勝手に殺すな。メール、送ってくれたんだろ。ありがとな」 「何で返信してくれなかったの? マジで心配したんだから」 「だって、さっきまで寝てたし」 「ずっと眠っていたんじゃなくて、ベッドで横になっていたっていう意味だよね。メールを打つくらいできないの?」 「体がだるくてしょうがないのに、そんな余裕ないよ」  他愛もないやりとりを交わしているうちに、心が次第に穏やかになっていく。宮下紗弥加の頭部のことも、北山司のことも、いつの間にか意識の辺境に追いやられていた。 「さっき起きたということは、食事は全然していないってことだよね。だったら、今日はあたしが夕食を作ってあげる。栄養がたっぷりで、元気が出そうなやつを」 「病み上がりであまり食べられないだろうし、そこまで気合いを入れなくてもいいよ」 「とにかく、楽しみにしてて!」  莉奈は軽やかな足取りでリビングを去った。 「莉奈ね、あんたのために料理作ってあげるって、昨日は張り切っていたのよ。体調が悪いみたいだから、元気になれるような料理を作るって言って」  すかさず母親が言う。包丁が食材を刻む音をBGMにしての発言だ。 「あんたが部屋から出てこなかったから、がっかりしていたわ。だから、また今日も張り切って作るんじゃないかな」 「僕に食べさせたいっていうより、料理を作りたいだけだと思うけどね、あいつの場合。家庭科の調理実習を機にはまったとか言ってたよね」 「そうかもね。後片づけもちゃんとするようにって、授業で習わなかったのかしら」  独り言のような苦笑混じりの呟きを最後に、僕たちがいる空間に聞こえるのは調理に関する音のみとなる。その静けさが、懸案事項について思案しなければならない雰囲気を演出した。  筧の話によると、昨日の放課後、北山司が筧に「楠部龍平のメールアドレスを教えてほしい」と言ってきた、という。  僕の冴えない容姿と消極的な性格を考えれば、残念ながら、北山が僕に恋愛感情を抱いているとは思えない。思春期特有の自惚れの力を借りても無理だ。  では、本当の目的は何なのかと考えて、電話で筧からその事実を伝えられた際に覚えた、悪しき予感の正体が掴めた気がした。  北山司は、宮下紗弥加殺害に何らかの関わりがあるのでは?  まさかクラスメイトが、とは思うが、可能性ならば僕以外の人間全てにある。筧にも、谷口にも、莉奈にだって。  北山の人となりは全く知らないが、よくも悪くも印象に残っていないのだから、特筆するほど風変りな性格ではないのだろう。過去に反社会的な事件や騒動の加害者になったといった、悪い噂や評判を聞いたこともない。  しかし、メールアドレスを求めてきたタイミングの不可解さ、これが引っかかる。いくら好意的に考えても、北山司は宮下紗弥加の事件とは無関係だ、と言い切ることができない。  やがて莉奈が再び姿を見せ、母親と共にキッチンで調理を始めた。  基本的には母親と言葉を交わしながらも、積極的に僕に話しかけてくる。考える必要のない、あるいは考えたくない問題について思案せずに済んだこと。宮下紗弥加の頭部が待つ部屋に戻らなくてもいい理由ができたこと。二重の意味でありがたい。懸案から逃げている自覚と、それに伴う後ろめたさはあったが、御しきれないほどに増長することはない。  六時半を回って父親が帰宅した。僕の体調に関する短いやりとりを僕と交わしてから、二階の自室へ。料理の匂いの主張が大分強くなってきた。 「お兄ちゃん、できたよー。自分で言うのも何だけど、すっごく上手に作れた」  後ろ手にエプロンの紐をほどきながら、莉奈が報告した。得意満面といった表情だ。 「さあ、手ぇ洗ってきて」  命令に従い、洗面所から戻ってきた時には、テーブルの中央に大皿が置かれている。満面の笑みの莉奈が両手でそれを示す。 「じゃーん! 今日作ったのはこれでーす」  中華風野菜炒めだ。野菜を中心に、何種類かの食材が食べやすいサイズにカットされ、加熱され、とろみがついた中華スープでひとまとめにされている。品目が多く、栄養バランスがよさそうで、丸一日以上食事をしていない僕にぴったりの一品だ。目の当たりにした瞬間はそう思った。  しかしその評価は、白濁としたスープがからんだ食材の一つを認めた瞬間、撤回せざるを得なくなる。 「栄養とか、作りやすさとか、色々考えて野菜炒めにしたんだ。結構大変だったよ。食材をちょうど十種類使ったんだけど――」  兄の表情の変化に気づく様子もなく、莉奈は自作の料理について誇らしげに語っている。  僕の目に留まったのは、豚肉。扁平な、加熱によって白っぽく変色したその食材は、少女の青白い肌を否応にも想起させた。  豚肉――人肉――殺された少女。  突飛な連想などではない。宮下紗弥加の首から下の体は、首と共に置かれてはいなかった。犯人の異常性を考えれば、食料として活用した可能性もゼロではない。  事前にその連想が予測できていたならば、豚肉が極力視界に入らないように注意を払っていた。人肉が使われているはずがないのだから気にせずに食べろと、自らに言い聞かせておくこともできた。  しかし、見てしまった。直視してしまった。軽い嘔吐感が込み上げてきて、堪らず目を逸らす。 「……えっと、何か嫌いなものでも入ってた?」  莉奈は少し眉根を寄せて僕の顔を見つめる。 「お兄ちゃん、食べ物の好き嫌いは殆どなかったと思うけど。何が駄目だったの?」 「いや、そういうことでは――」 「莉奈、配膳手伝って」  キッチンから母親が大声で呼ぶ。莉奈は「はーい」と返事をしてキッチンに戻る。僕は浮かんでもいない頬の汗を手の甲で拭った。  料理と食器が並べ終わり、父親が二階から下りてくる。全員が着席を完了し、二日ぶりとなる家族四人揃っての夕食が始まった。  テレビを点け、他愛もない会話を散発的に交わしながら、箸を動かす。言葉によるやりとりの合間を縫い、莉奈の探るような視線が僕の顔や手元へと注がれる。手料理をお披露目した際の反応が芳しくなかったから、だろう。  人肉はあくまでも連想しただけで、実際に使われているのは豚肉だと承知している。それでも僕の箸は、十種類の中から豚肉だけを巧みに避ける。今のところ莉奈は気がついていないようだが、選り好みが発覚するのも時間の問題だ。その事態を未然に防ぐには、抵抗感を振り切って食べるしかない。  豚肉を単独で食べる冒険は避けた。野菜と野菜の間に挟んで視覚的に隠蔽し、口に放り込む。肉の柔らかい感触をなるべく味わわないように、極力噛む回数を抑え、殆ど呑み込むようにして食道送りにする。肉を食していることを意識しないように、無心を心がけてそれを繰り返す。  作り手に対して失礼な食べ方だ。せっかく僕のために作ってくれた莉奈には、済まないと思う。しかし、代替案は思いつかない。  作戦は功を奏したらしく、莉奈が僕に注目する頻度は次第に低下していく。ただ、妹の好意を踏みにじっていると自覚しながらの食事だから、愉快な気持ちにはなれない。  やがて情報バラエティ番組が本日の放送を終了し、ローカルニュースに移行した。アナウンサーのごく短いオープニングトークを経て、最初のニュースが始まる。案の定、宮下紗弥加失踪事件についてだ。  新たに判明した事実や情報はないらしく、既成の事実を並べ直したような構成だ。ただ、極めて特殊な形で、しかも密に宮下紗弥加に関わってしまったあとだけに、一昨日と同じ心境で見聞きはできない。  画面が切り替わり、宮下紗耶香の母親が映し出される。涙ながらに娘の無事を祈っている。一昨日同じチャンネルで放送されていた、別の番組で流れていたのと同じ映像だ。  宮下紗弥加の母親は震えを帯びた声で、愛娘の早期の発見と帰宅を繰り返し願う。自らが発したふとした一言が引き金となって感情が昂ぶり、堪えていた涙が溢れ出し、言葉が続かなくなる。  箸を持つ右手の震えを抑えるのに苦労した。そうする傍ら、豚肉を肉だと意識しないように心がけながら食べなければならないため、実感としては苦行に臨んでいるに等しい。  母親のインタビューの模様が終わり、画面がスタジオに戻るまでの一分少々が、果てしなく長く感じられた。
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