深淵の孤独

1/23
前へ
/23ページ
次へ
 ほーほー、ほほー、ほーほー、ほほー、と、いつもの鳥が鳴いている。シーツの上で上体を捻じり、枕元に置かれたケータイのサブディスプレイを見る。午前五時五十五分。  いつもであれば二度寝をする時間だが、眠気は全くない。血痕じみた薄茶色の染みが浮かんだ天井を見つめながら、いつもと何が違うのかを思案してみたが、手がかりすら掴めない。考えを巡らせているうちに、鳥は鳴きやんでいた。  ベッドから下り、クリーム色の厚手のカーテン、純白の薄手のカーテン、窓硝子の順番に開く。経年劣化から黄ばんでしまった無機物は、元はまっさらで、まっさらなそれにも存在しなかった時間、つまり透明だった時代があって――という時の流れを、頭の隅で意識した気もする。  六月早朝の空気は冷たさが引き立つような清澄さで、一夜中布団にくるまって保温された体に快い。着替えを済ませた頃には、早起きにまつわる謎を探求しようという欲求は雲散霧消していた。  洗顔し、歯磨き粉を少量つけた歯ブラシで歯を磨く、朝のルーティン。うがいをし、磨き終わったばかりの歯を鏡に映した瞬間、いつもよりも早めに登校しよう、という考えが忽然と浮かんだ。  家族が立てる生活音を聞きながら部屋で過ごすことと、人気のない静かな教室で過ごすこと。どちらが快適かは考えてみるまでもない。そのシチュエーションを凄まじく魅力的に感じたわけではなかったが、後者を選ぶことにした。  早起き。早めに登校する決断。どちらも僕らしくないが、異常だとも不可解だとも思わない。いい意味で自分らしくない行動を取る自覚。それに伴うある種の高揚感。一つの感覚と一つの感情に仄かに酩酊していた。  着たばかりの部屋着を制服へと速やかに交換し、スクールバッグに必要なものを詰め込む。自室を出ようとしたところで、四時間目に体育の授業があることを思い出した。銀鼠色の体操着入れをバッグの横に置き、部屋を出て階段を下りる。  家族はまだ誰も起きていないらしく、ダイニングは無人だ。先に食べてもいいが、自力で準備できるのはトーストとコーヒーだけだから、一日の始まりを飾る食事が味気ないものになってしまう。十分や十五分待てないほど空腹ではなかったが、朝食はコンビニエンスストアで購入することにした。自室までスクールバッグと体操着入れを取りに戻り、自宅を発つ。  隣家の榊原さん宅の門前を通り過ぎる。ほーほー、ほほー、の鳥がいつもとまっていると思われる、丈高い庭木がざわめいている。登校が一時間半早いだけで、本来ならば肌に心地よいはずの風は冷たく感じられる。  早めに登校したことを母親に伝えておこうと思い立ち、メール機能を立ち上げる。「今日は早めに」と打ち込んだところで、わざわざ報告するのも大げさな気がした。文章を消去し、携帯電話をズボンのポケットに仕舞う。僕の自室のドアは外側から鍵はかけられない。スクールバッグと体操着入れが消えているのを見れば、僕が取った行動を察してくれるはずだ。  最寄りのコンビニは、自宅と中学校のほぼ中間地点にある。購入したのは、ホイップクリーム入りのメロンパンと、紙パック入りのコーヒー牛乳。レジを担当した、僕と五つも歳が離れていないだろう茶髪の男性店員は、二分前に制服に袖を通したばかりのように眠たそうで、ささやかな親近感と密やかな優越感が胸に漂った。  放課後に一部の同級生が実演してみせているのを真似て店先にしゃがみ、パンの袋を開封する。朝の早い時間だからか、来客はない。一分置きくらいに、ウォーキングやジョギングに勤しむ人が通り過ぎていくだけだ。メロンパンを頬張り、コーヒー牛乳を飲む。殺風景な景色ではあるが、寂寥感も孤独感も覚えない。徹頭徹尾、穏やかな心境で食事をとった。  有り余る時間が、学校へ向かう足取りを悠長なものにさせた。人間が活動する気配すら殆ど感じられない静けさに、平穏な日常を実感しながらの歩みとなった。  鉄条網に囲繞された駐車場の角を左折すると、県立S中学校に直通する一本道に出る。道の両脇に生えた草花や街路樹の色彩が鮮やかな、なだらかな上り道だ。紫陽花がちょうど見頃で、紫色や青色やピンク色の花が、朝露をまとって上品に咲いている。  学校まであと少しというところまで来て、正門に違和感を覚えた。  少し歩を緩め、問題の場所を注視する。門柱の上に何かがのっている。本来ならば何もないはずの場所に、何かがある。それが違和感の正体らしい。  誰かがS中学校の敷地の外で、S中学校関係者のものと分かる持ち物を見つけたが、連絡先は確認できなかった。さりとて、職員室まで届けるのは躊躇われたので、人目につく校門の上に置いた。発見した学校関係者が、必ずや持ち主のもとまで届けてくれるだろう、という信頼のもとに。  そのような物語が頭の中で組み上がると、門柱の上の物体への関心はたちまち失われた。以降は、物体を発見する前のように、路傍で咲き誇る紫陽花の花を眺めながら歩いた。  あと数歩で正門に差しかかる地点まで来て、遅まきながら、今くらいの早い時間帯でも校門は開錠されているのか、疑問に思った。目で確認するべく、注目の対象を紫陽花から正門へと移し替えた。  刹那、  頼みもしないのに上下の唇が隙間を作り、「ひっ」という声が出た。腰から下の支配権が剥奪され、力なくその場に座り込む。アスファルトの冷たさを尻に感じたのが引き金となり、体が小刻みに震え始めた。  門柱の上に、人間の頭部のような物体が置かれている。  あたかも、登校する生徒たちを歓待するかのように、顔を真正面に向けて。  にわかには信じがたい光景だった。無意識に胸の内で、「有り得ない」だとか「嘘だ」だとかいった言葉を早口に繰り返していた。  未曽有の混乱と恐怖に襲われながらも、頭部から目を離さない。「こんな場所に人間の頭部があるはずがない」という祈りにも似た思いが、「僕の目の前にある、僕の脳髄が人間の頭部と認識した何かは、人間の頭部ではなく、人間の頭部とは似て非なる何かだ」という反発心を生み、立証するべく頭部を凝視した。要するに、真相を確かめたい気持ちが恐怖を上回ったわけだ。  頭部のサイズは、成人のそれよりも小さい。目鼻立ちは幼く、あどけなく、小学校低学年の女児と見受けられる。瞼と唇は厳粛に閉ざされ、表情は苦悶しているわけでも安らかなわけでもない。頭髪は純然たる黒で、後ろ髪は純白のリボンのようなものによって一つに束ねられている。肌は病的に青白く、血の気が感じられない。  似て非なる何かなどではない。本物の人間の頭部だ。  悟った瞬間、猛烈な嘔吐感が込み上げた。  ひと思いに胃の中身をぶちまけていれば、多少なりとも楽になれていたのかもしれない。しかし、吐けなかった。今にも吐きそうな気がするのに、現実が伴わない。  熱いような寒いような、どちらかのはずなのに、どちらでもあるしどちらでもないような、初めて体験する不可解で不愉快な感覚に総身が包まれている。体の震えは次第に激しさを増していく。額や首元から粘っこい汗が旺盛に分泌され、緩慢に垂れ落ちる。逆に、目頭に溜まった雫は悪戯に体積を増やすばかりで、最後の審判の日が訪れてもこぼれ落ちそうにない。  震えは一向に収まる気配がないが、吐き気は尻すぼみに沈静していく。程なく、無視しようと思えば無視できる程度に落ち着いた。  しかし、周囲の状況に気を配るだけの余裕を得たのが仇となり、新たなる災いに見舞われることとなる。早朝の正門前の人気のなさと静寂を認識したことで、恐怖の感情が爆発的に膨張したのだ。  一刻も早く、心が安らげる場所に逃れたい。  切実な欲求が芽生えた、直後、どこからか物音が聞こえた。  背筋を悪寒が駆け上った。素早く前後左右に目を走らせたが、人の姿は確認できない。  ただ、正門に通じる一本道の両脇には、人間が姿を隠せそうな高さと奥行きの叢が、道に沿って展開している。  特別臆病な人間ではなくても、キャパシティを超えた衝撃と恐怖を味わえば、誰だって多少なりとも精神に変調を来たす。神経が過敏になり、普段ならば気にも留めないような些細な違和感を、過大に認識してしまう状態に僕は陥っていた。明らかに正気ではなかった。  極限状態の中、こう考えた。  今この場所に誰かが来たとしたら、その人は、少女の頭部を正門の上に置いた犯人は僕だと疑うだろう。気が動転している僕は、「僕は頭部の発見者に過ぎず、犯人ではない」と主張することさえもままならないかもしれない。そうなれば、通報され、警察官の手によって警察署に連行され、少女殺しの容疑者として取り扱われてしまう。  殺人の罪も、死体損壊の罪も、死体遺棄の罪も犯していないのに。起床するのが早かったから早めに登校しただけなのに。パニックに陥っているから上手く説明できないだけなのに。それなのに、容疑者だなんて、  冗談じゃない。  体操着入れから体操着を引きずり出し、入れ替わりに頭部を突っ込み、紐を固く締めて口を閉ざす。体操着をスクールバッグの中に突っ込んで肩にかけ、頭部入りの体操着入れを右手に提げ、脇目も振らずに駆け出した。校舎を目指して、ではなく、歩いてきた道を行きとは逆方向に。  人間の頭部が入った体操着入れは、体操着が入った体操着入れよりも遥かに重たい。僕の動きに合せて揺れる内容物が、体操着入れ越しとはいえ体に触れないように、右腕を大きく横に突き出して走る。  走りにくかった。滑稽な走り方だと己を客観視した。それでも走り続けた。  安心して一人でいられる場所に、一刻も早く辿り着きたい。頭部が入った袋を手に、しゃにむに疾駆する僕の胸を占めるのは、その一念だ。  走っている間は、何者かに見られているような感覚が常につきまとった。一方で、辛うじて生き残っていた正気で冷静な自分が、気のせいだ、パニックを起こしているからそう感じるだけだと、臆病な自分にひっきりなしに言い聞かせ、その感覚を懸命に否定しようと試みてもいた。  人間とも、自動車とも、自転車とも擦れ違うことなく、自宅に帰り着いた。  玄関ドアの内側に滑り込んだ途端、嘔吐感が喉の奥で再生された。前回とは異なり、結果を伴う類の感覚だ。体操着入れの紐を強く握り締め、足音を鳴らしてトイレに駆け込む。  ドアを閉めた途端、物理的に込み上げてくる感覚があった。体操着入れの紐が手から離れ、床に落下して音を立てる。ドアの鍵を閉め、便器の蓋と便座を一緒くたに上げ、白亜の器に覆い被さるように跪いて嘔吐した。  不快感も熱さもなく、どろどろとしたものが食道を逆行し、排出されていく感覚だけがあった。ああ、吐いているんだな、と思う。吐けなかったのに、吐けたんだね。よかったね、よかったね、よかったね……。  涙は出ない。目の縁に溜まっていた雫は、走っている間に蒸発していた。風前の灯火のような微かな熱だけが、地縛霊のように目頭に居座っていた。
/23ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加