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前の席で、ガタンと椅子が鳴った。ああもうすぐだ。絶望の思いで、目の前の背中を見上げる。サイズが大きすぎるのか、着慣れていないだけなのか、その紺色のブレザーはひどく不格好だった。
「林美香子です」
それは、消え入りそうなくらい小さい声だった。けれど、騒がしくなり始めた教室の中で、誰にも見つからないように、こっそりと、忍ばせるように置かれたその声に、心の中で首を傾げ続け、ふてくされ続けていた「直子」が、思わず息を飲んで姿勢を正した。
着席したその背中の輪郭を切り取るように、視線でなぞる。うっすらと茶色がかった髪。ボブの毛先が、その紺色に弾かれるようにくるんと内側にカールしている。自己紹介を終えて緊張がとけたのか、右手は忙しなく前髪をいじっていた。わずかにのぞく首筋は、ハッとするほどに白い。
教師に、次の人、と促されて「直子」は慌てて立ち上がった。
「吉村直子です」
いつものように、ぐっとボリュームを絞った声で、飾り気のない(父親いわく、真っ直ぐ生きていってほしいという願いが込められた)名前を口にする。すると、目の前の不格好なブレザーが、ぴくりと動いた。
「はい。じゃあみんな、これからよろしく。そろそろ入学式が始まるから、廊下に整列するように。出席番号順だぞ」
教師が大きな声で叫ぶと、がたがたと椅子や机が鳴って、教室が喧騒に包まれた。
目の前の背中が振り返る。「美香子」と名乗ったその女の子の大きな目が、まるで値踏みするように「直子」をじっと見つめた。
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