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対立
長篠を襲う五月雨が止んだ。
雨上がりの匂いと共に立ち上ぼった煙霞を、雲の隙間から射す光が照らしている。空から斜めに落ちる光束に囲まれて、武田勝頼は腕を組んでいた。
白色の鬣を生やす金色の鬼の兜は、今は亡き信玄が着けていたものである。兜の下の狂気を帯びた目が、霞がかったもやの向こうにある徳川の牙城を見据えていた。
「長篠城は落城寸前。総攻撃を仕掛ける」
勝頼は力強く言葉を吐いた。
武田軍は長篠城を包囲し、一時総攻撃を仕掛けたが落城まではいかなかったため、勝頼は歯がゆく思っていたのである。
「勝頼様。それは悪手かと」
意義を唱えたのは老将山県昌景である。しわに刻まれた年輪が鬼のような形相を作っており、小柄ながら人を圧倒する雰囲気があった。
「長篠城に火器がまだ大量に残っているみたいですな。弾を惜しまずに連射されては、死人が増えるばかり。とはいえ兵糧はとうに尽きておりましょう。包囲しておれば落城も時間の問題ではないでしょうか」
兵糧庫を火矢で燃やしたのは三日前である。昌景の言い分は間違っていない。だが、勝頼は昌景の意見は聞きたくなかった。
「待たずとも、もう一度攻勢に出れば良いではないか。攻めれば落とせる」
「例えそれで落としても、兵を消耗品のように減らす戦では、人望を失いますぞ」
「ふん」
勝頼は昌景を一瞥すると、何かを言おうともごもごしてその言葉を呑み込んだ。
昌景は武田家家臣の筆頭で、信玄から最も信頼されていた男だった。戦に強く頭も切れる。武田軍を象徴する騎馬隊が昌景率いる赤備えだった。
そのため昌景の発言力は強い。それは勝頼よりもだった。
そもそも、この状況は信玄が作った。信玄は死ぬ間際、遺言で『次期当主は孫の信勝とするが、信勝が成人するまでは勝頼を代理とする』と残した。跡取りの候補が勝頼しかいないが、後継者として指名したくなかったのだろう。
そのため、勝頼の立場は微妙になった。
ーーわしは結局、父に認められなかった。そして、この男にも認められていない。
勝頼が武田家を一枚岩にまとめるには、父を超え、昌景に認められるしかないのだ。そのためには勝つしかない。
否、勝ち続けるしかないのだ。
去年、勝頼は信玄ですら落とせなかった高天神城を落としたが、昌景からの評価は変わらなかった。一度や二度の勝利だけでは足りない。
「昌景」
「なんでしょうか?」
「いや、なんでもない」
昌景は兵に指示をしに回った。勝頼はその背中を見ていた。
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