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見慣れた古い木の天井とは正反対の、無機質な白が視界に広がる。嗅ぎ慣れたイ草の匂いは無く、個室には薬臭さが漂う。
青年は打たれた麻酔のせいで微睡みの中にいた。麻酔のせいだけではない。先程から額を撫でる手が青年に安心を与えていた。
青年が横たわるベッドの側で女は黙って彼の黒髪を撫で続ける。
2人の間に会話はない。もうこれが今生の別れだというのに。否、今生の別れだからこそかける言葉を探しているのかもしれない。
閉じようとする瞼を必死に止めて、落ちかける思考を必死に手繰り寄せて、彼は女にかけるべき言葉を探す。半分開いた口からは何も出てこなかった。
先に言葉を発したのは女の方だった。
「ヨウ。もし、その体で君が目覚めたら私の振りをしなさい」
眉根を寄せて哀願する女の頬を撫でようと、彼は手を上げようとするが体は言うことを聞かない。
「晴子さん、」
そんな顔しないでください。手術は成功します。
言いたかった言葉は喉に張り付いて、外に出ることはなかった。
瞼が重くなる。視界が暗くなる。意識が底へ引っ張られていく。
そうして、彼の人生は静かに幕を閉じた。
◇◇◇
青年と女――ヨウと晴子の出会いは10年前の夏だった。蝉の声が喧しい午後のこと。書斎にいた晴子の元に父親が子供を連れてきた。
似合わない上等なシャツから覗く貧相な腕や首、その場しのぎで切られたと思われる不揃いな短髪、この状況に困惑と恐れを伺わせる表情。幼子を父は「愛人の子」だと説明した。
「愛人ですか、赤子ならともかく何故今更」
「母親が流行り病で死んだ。身元引受人に私が指定されていたから仕方なく役所から引き取ってきたのだ」
父はさも厄介事が転がり込んできたという風に語る。後ろの少年は居心地悪そうに俯いた。
「それで彼をここに連れてきて私に何をさせようというのですか」
「使用人にするにも読み書きも出来ないのでは使い物にならん。お前が教えてやりなさい」
明治から100年あまりに渡って製薬会社を経営する旧家の九条家、その本邸。しかし、晴子以外の親族は皆都会に引っ越し、山奥にあるこの日本屋敷の住人は彼女と僅かな使用人しかいない。確かに当主の醜聞を隠すのには、絶好の場所であろう。加えて暇を持て余す娘を教育係に仕立て上げようという魂胆らしい。
父は晴子の沈黙を了承と解釈し屋敷を出ていった。残された少年は拳を握り締め顔を上げない。
「君」
晴子の呼びかけに大袈裟に肩を揺らして、目線を上げる。安楽椅子に腰かけた女は緩やかな笑みを浮かべて問いかけた。
「名前は?」
「……ヨウです」
「ヨウか。よろしく、私は晴子」
差し出された右手を恐る恐る両手で握る。亡くなった母と同じ年頃とは思えないほど柔らかく冷たい手にヨウは心配を覚えた。
潰さないように緩く握った右手は力強く握り返される。驚いて顔を上げれば自分をまっすぐに見つめる瞳に射抜かれた。
「今日からこの九条の屋敷が君の家だ」
こうして2人の生活は始まった。
ヨウは物覚えのいい子だった。6歳だった彼は就学前だったが、簡単な計算は覚えていたし1度教えた字や言葉を忘れることはなかった。
冬には九条家の使用人として働き始めた。掃除から料理までなんでも教わり瞬く間に吸収していった。
環境に慣れていくうちにヨウは晴子の生活に疑問を持つようになった。1人きりの日本屋敷で1日を過ごす彼女は、多く時間を書斎で費やしていた。数字と英語の羅列された紙の束をしばらく眺めていたり、猛然と万年筆を走らせていたりする。定期的に大量の書物が屋敷に届くのでそれらを書斎まで運ぶのがヨウの仕事だった。
ある小春日和の日のこと。いつも通りに届いた書物と一緒に1通の手紙を受け取った。手紙は縁側にいた晴子に渡し、ヨウは書斎と玄関の往復を始める。
全ての書物を書斎に運び終わったことを知らせに晴子の元に行けば、落ち込んだ様子の彼女が目に入った。
手には封が切られた手紙。
「どうされましたか?」
「うん?いやね」
見る?と差し出された手紙を受け取って読めばそこには彼女の提案が却下されたことが端的に書かれていた。
「これは、」
話の流れが分からないヨウは彼女に説明を求める。
「私は脳を他人に移植する研究をしているんだ」
「脳を?移植……?」
少年は頭の上に疑問符を浮かべる。晴子は頷く。
「私は人の心がどこにあるのかを知りたいんだ」
「人は脳で物を考えるのですから、頭に心があるのではないですか?」
聡明な少年の質問に嬉しそうな彼女はいつになく饒舌に自らの研究を語る。
「そう。私も脳こそが人間の核だと考えている。だけど、九条では心とは心臓のことであり人間の核は心臓だという考えが浸透している。だから、一族への意趣返しの意味も込めて私はこの研究を完成させたいと思っているんだ」
「意趣返し……ですか。なぜ、」
話についていけないヨウを晴子は縁側に座らせ自分もその隣に座る。
「私がこの考えのせいで殺されそうになったからだよ」
衝撃的な単語にヨウは目を白黒させる。
彼の反応は予想内だったのだろう、晴子は淡々と出自を語る。
「昔から心臓を患って生まれた子は家に災いをもたらすと九条では信じられていてね、私は運悪く生まれた時から心臓が弱かった。家を継ぐこともできない女の私はその場で殺されるはずだったのだけど、母が酷く反対した。仕方なしに先祖代々継がれてきたこの田舎の屋敷で秘密裏に育てられることになったんだ。幽霊みたいなものだよ。
有難いことに教育は母が惜しみなく受けさせてくれたので、私は持て余した暇を意趣返しのための研究に使っているというわけだ」
その母も数年前に病が原因で亡くなってしまった、とは付け加えなかった。母を失って1年も経たない幼子に余計な情報を伝える必要はないと思った。
「研究を認めてもらおうと論文を書いて父直属の研究チームに送ったんだけど、結果は手紙の通り。人生思い通りにはいかないね」
そう言ってちらりと隣の少年の顔を見る。そして、少年の瞳から零れそうな涙にぎょっとする。
他人とのコミュニケーションが皆無の晴子にとって、泣く相手を慰めるのは初めての経験だった。慌てながら何か涙を拭うものはないかと探す。
ヨウはシャツの袖で涙を止めた。
「晴子様のお話を聞いていたら悲しくなってしまって、ごめんなさい。すぐに泣き止みますので、」
そうは言っても少年の目からはぽろぽろと絶え間なく涙が溢れてくる。
とりあえず落ち着かせようと彼の頭を撫でた。
「それなら君の方がずっと辛い環境で生きてきたじゃないか。父はおらず母と2人きりで頑張ってた。それなのにこんなに早く母を失って、今度は知らない土地で一生懸命働いている。お前はえらい子だよ」
黒々とした短髪をゆっくり撫でる。えらい子だよ、というと撫でていた頭が横に振られた。
「そんなことありません。辛さを比べることは出来ません」
10歳以上も年の離れた子供に大人みたいなことを言われて、恥ずかしいような嬉しいようなむず痒い感覚に陥る。
どうしたものかと頭を撫でる手を休めないでいると、徐に空いていた右手を掴まれる。
驚いて少年を見据えれば潤んだ瞳が晴子をまっすぐにみていた。
「きっと、研究を完成させましょう。ぼくにお手伝いさせてください」
今までずっと1人きりで研究をしていた。それを不便に思ったことも寂しいとも思ったこともなかった。
だけど、それは誰かと一緒に何かを行うことが想像もつかなかったからだ。
仲間の存在がこんなにも心強いのか。
混じりけのない厚意の心地よさを知って、喜びのあまり体中から笑いが溢れた。
「晴子様?」
なぜ彼女が笑い出したかわからない少年は首を傾げる。
笑いすぎて涙を浮かべる晴子は掴まれた右手をぎゅっと握り返した。
「よろしく頼むよ。一緒に研究を完成させよう」
◇◇◇
それから2人は長い時間を共に過ごした。
痩せ細った子供だったヨウは見る見るうちに成長し、16になるときには立派な青年になった。屋敷に来たばかりの頃は短かった髪も肩にかかるほどの長さまで伸ばし、今は背中で一つに結んでいる。
力も知識もつき、大概の仕事は自ら行えるようになった。
心臓の悪い晴子は年に数回発作を起こして倒れることもあったけど、近くに住むお抱えの医者のおかげで大事に至ることはなかった。
「ヨウ!論文が認められたぞ!」
研究は少しずつ成果が生まれ始めていた。定期的に九条製薬の研究チーム宛に送っていた論文と資料が認められ、ついに実験を行えるようになった。研究チームは父の直属だから、研究結果を父が認めたと言っても過言ではないと2人は思った。
ただ、論文は九条晴子とは別人の名前で書いており、九条の人間の研究成果ではなかった。九条の名で社会と交わることを父は許さなかった。
そんな状況を2人は特段憂いていなかった。時間なら余るほどあったし、研究を完成させることが1番の目的だったから。自然の中で季節を感じながら過ごす日々、大切な人と暮らす穏やかな日々に2人は満足していた。
緩やかに時間の過ぎる生活が一変したのは、2人が出会って10年目の夏の終わりだった。蝉の声はずっと前に聞こえなくなって、残響だけが夏を思い出させる頃だった。
屋敷の周りを掃除していたヨウはその異変にいち早く気が付いた。
いつもは静かな屋敷に大きなエンジン音が近づいてくる。
屋敷に来るための一本道の先を注視していれば、轟音の主は現れた。
黒塗りの自動車に乗ってやってきたのは、九条家の当主で晴子とヨウの父だった。
車から降りる男の姿にヨウは胸騒ぎがする。ヨウが彼と会うのはこれで2度目、母が死んでここに連れてこられたあの時以来だ。
石のように体を硬直させた子に父は慇懃な態度で娘を連れてくるように指図する。
ヨウは強張った口をようやく動かし返事をして書斎に急ぐ。
いつも通り書斎にいた晴子に父の来訪を告げると、ヨウ以上に顔を曇らせる。速足で応接間に向かえば、突然の来客はソファに座り貧乏ゆすりをしているところだった。
「お待たせしましたお父様。今日はどんなご用事で」
険のある娘の語調に父は眉をしかめる。
「随分時間がかかったな」
「ええ、大事な使用人が青ざめた顔で私を呼びに来ましたので事情を聞いておりました」
フンっと鼻を鳴らした男はそのまま目の前のテーブルの上に新聞を投げる。
読め、ということなのだろう。横柄な態度に辟易しながら晴子は新聞の一面を読んだ。
『××トンネル崩落 死傷者多数』
隣県で起きたトンネル崩落の事故は多くの死亡者と怪我人を出したらしい。
「その事故で忠彦と勝彦が死んだ」
「えっ、弟たちが……、」
「取引先との会議に向かう途中で巻き込まれららしい。朝方に警察から2人の遺体が見つかったと連絡があった」
2人の弟の死に動揺する姉とは反対に父は淡々と話を続ける。
「九条の跡取りがいなくなった。至急、次の者を決めねばならない」
何を言っているんだ、と喉まで出かかった。
血を分け育ててきた息子たちが一遍に死んでしまったというのに、この男はなぜ後継者のことを心配しているのだろうと純粋に疑問に思った。
悲しむ心がないのか、愛する心がなかったのか、晴子には見当もつかなかった。
「忠彦の子供も勝彦の子供もまだ幼い。今から教育するには時間がない。だから晴子、お前が九条製薬を継ぎなさい」
声も出なかった。
28年前に忌み子として殺そうとした娘に、視界から消すように山奥に隔離した娘に今更会社を継げと、この男はそう言っているのだった。
「何を仰っているのか、意味が分かりません」
「分かる必要はない。これは決定事項だ」
説明を求める声をあっさり棄却する言葉にカッとなって晴子は声を荒げる。
「私は会社のことは何も分かりません」
「教材も資料も用意する。理解できるだけの教育をお前には受けさせた」
「そもそもっ!心臓が弱い女の私では会社を、家を継ぐことは出来ないのではありませんか!」
「全ての条件を満たす手立ては全てここにあるではないか」
手立て、と言われて晴子は思考を巡らせた。山と田畑しかないこの古びた屋敷にあるもの、それは
「っ!」
九条家の者として教育を施した女。脳を他人に移植する研究。そして
「旦那様、晴子様。お茶をお持ちしました」
晴子と同等の九条の血筋を持つ健康な青年。
「私はもう帰るので下げてくれ」
お茶を運んできたヨウを手で制し、父は立ち上がった。
「必要な物も人もこちらで用意する。お前はそれまでに準備をしておけ」
そう言って、棒立ちの娘の肩を叩き応接間を出ていった。
蝉より数段喧しいエンジン音が屋敷から遠ざかっていく。
屋敷の2人の間にはただ、沈黙が残されていった。
突然の来客が去ってから晴子は書斎にこもっていた。声をかけても扉の向こうから返事はない。
彼女の様子が心配なヨウは深夜に再度、扉をノックした。
「晴子様。どうかされましたか?」
返事はない。物音もしない。倒れているのではないかと不安が増す。
数秒後、「ヨウ、入りなさい」と呼ばれて即座に扉を開ければ、彼女は真っ暗な部屋で安楽椅子に座っていた。
元気はないが急を要する体調不良ではないことにほっと胸を撫でおろす。
「ヨウ」
手招きで近くに来るように呼ばれる。逆光で彼女の顔は見えない。
彼は距離を詰めて安楽椅子の前に跪く。膝の上の拳は硬く閉ざされていた。
「体調が悪いようなら先生を呼んできます。どうされましたか」
下から見上げた彼女の顔は悲痛そのものだった。苦悩に押しつぶされそうな頼りない表情を見るのが辛くて、ヨウは出来る限りの優しい声音を意識する。
しばらくの逡巡の後、覚悟を決めたように晴子は口を開いた。
「弟たちが事故で死んだ。お父様がヨウに私の脳を移植するように言ってきた。今日中に荷物をまとめてここから出ていきなさい」
息を飲み二の句が継げない異母弟を見つめる。
これが最善策であると、九条家の者ではない彼の未来を閉ざす真似は許されないと何度も頭の中で繰り返す。
気の早い鈴虫の鳴き声がする。開け放した窓から晩夏の冷たい空気が流れ込んできた。昼間の気温に合わせて出していた腕に鳥肌が立つ。
沈黙が重く苦しくて、喉を締め上げられているような心地が続く。早くここから立ち去ってほしいと願いながら、沈黙の水位が下がるのを待つ。
再度逃げるよう諭すために口を開けたのと爪の食い込んだ拳にヨウの手が重ねられたのは同時だった。
拳の中にある指を1本1本丁寧に解いていく。
平手になった晴子の両手を重ねてヨウの手がそれを下から支える。
「晴子様。手術をしましょう」
「っ、君は分かってない!君の体に脳を移植するということは君の脳は、」
「分かっています」
晴子の隣でずっと研究を見てきたから分からないはずはなかった。他人の脳を移植されるということは、体の持ち主の脳は失われるということ。九条にとって必要なのは、晴子の脳とヨウの体だけ。つまり、手術を行えばヨウの脳は用済みということだ。
「分かっています。でも、これは研究の成果を出すまたとない好機です。脳にこそ人の心はあると九条の人々に証明するチャンスです」
熱のこもった言葉が晴子に告げられる。この短時間で彼の決意が固まったことは明白だった。
否定しなければならなかった。
「君が九条に体を差し出さなければならない理由はどこにもない!」
「いいえ」
ヨウは落ち着きを払って首を横に振る。
「僕が生まれることができたのは九条家のおかげです。そして、10年間生きてこられたのは貴方のおかげです。たとえ、九条家に名を連ねられなくとも、僕は九条家に、貴方に恩返しがしたいのです」
ヨウは自分の左胸に晴子の掌を当てる。
「僕の体で貴方が生きてくれるならば、何も惜しいことはありません」
ドクドクドクドク。血の巡る音を感じる。
初めから、選択肢などなかった。
心臓の悪い晴子がここから逃げて庶民と同じように働いて生きていくのは不可能に近かった。
彼女は九条家に守られ生きてきた。そしてこれからは守らなければならない。九条家に名を連ねる者として。
「君を連れてここから逃げられたら良かったのに」
叶わぬ夢想は窓の外の夜に吸われていった。
いつも伸びていた背筋を丸くして、晴子はヨウの胸に頭を預ける。
「ごめん、ごめん、ごめん」
噛み殺した嗚咽が謝罪と共に零れた。
幼子のように泣きながらうわごとのように一言を繰り返す彼女を、ヨウはただ黙って抱きしめた。
◇◇◇
手術は2週間後に行う予定となった。手術当日に2人を迎えに来た車は、屋敷のある田舎から九条製薬系列の病院がある都会までまっすぐに向かった。
病室に案内され執刀医から手術の説明を受ける。刻々と変わる状況の中で、ヨウはなんだか夢を見ているような気分に陥っていた。
医師に言われるままに診察を受け、手術衣に着替えた。
麻酔を打つためにベッドに寝かされ、腕に注射を打たれる。
処置を終えた医師と入れ替えに病室に入ってきたのは晴子だった。
体の自由が徐々に奪われていくヨウの頭を撫でる。
もう謝罪の言葉は出てこない。彼の決意を無駄にするわけにはいかないから。だから、せめて心安らかに旅立てるように頭を撫でる。
「ヨウ。もし、その体で君が目覚めたら私の振りをしなさい。九条晴子を最もよく知る人間は君だ。誰も違和感を感じるまい」
もうほとんど瞼を閉じたヨウに独り言のように話しかける。
「晴子さん、」
返答はなかった。それでよかった。
別れの言葉を聞いたら泣いてしまうから。泣く権利は2週間前のあの日に失っているから。
穏やかな寝顔をただ静かに見守っていたかった。
◇◇◇
次に目を開けたのは白い天井の下だった。
時間は深夜らしく、枕元のランプだけが視界を明らかにしている。
深い睡眠から目覚めた頭と体は思い通りに動かず、目線だけを彷徨わせる。寝ているこの場所は病室らしかった。
ゆっくり記憶を整理していると、無遠慮に病室のドアが開かれる。
やってきたのは白衣を着た父だった。
「やっと目が覚めたかハルヒコ。調子はどうだ」
「ハルヒコ……」
呼ばれなれない名前を反芻する。父は立ったままベッドの上の彼に話す。
「九条晴彦。それがお前の名前だ。晴子の名もヨウの名も忘れろ」
覚えておけ、と示された紙の山は九条晴彦についての詳細や会社や経営の書類のようだった。
「戸籍上のお前は私の遠縁の子だ。そのつもりで振舞うように。明日からの経過が良好ならすぐに退院だ」
それだけ言って父は白衣を翻し、病室を出ていこうとする。
「お父様」
呼び止められた声に1度ドアにかけた手を離した。
「なんだ」
「手術は成功したんですか」
その言葉にピクリと体を震わせた父親は振り返らずに我が子に言う。
「それはお前が1番よくわかっているだろう」
それ以外は何も言わずに今度こそ、父は病室を出ていった。
1人きりになった彼は眠れぬ夜を過ごした。
◇◇◇
九条晴彦が次期当主として初めて参加する儀式は、九条晴子の葬式だった。
彼女の葬式は彼女と関係のあった僅かな者だけの密葬で執り行われた。粛々と進む儀式はすぐに終わり、晴子の遺体もその日のうちに火葬された。
葬儀を終えた晩、早々に屋敷を離れた使用人たちを見送った晴彦は書斎にある全ての研究資料を庭で燃やした。
煌々と熱を振りまきながら炎は紙を灰に変えていく。その様子を眺めながら、晴彦は願っていた。
もうこんな悍ましい悲劇が起こらないように。もう誰も犠牲にならないように。
晴彦は髪を一つに束ねていたゴムを緩めると、空いた隙間にハサミを入れた。頭から離れた髪の束を炎に投げ込む。
研究資料も髪も瞬く間に灰になった。
熱の去った灰の山を丁寧に掬い上げて、庭の隅に掘った穴に流し込む。
全ての灰を残らず穴に入れると今度はその穴を埋めた。
埋めた穴の上に、手のひら大の木の板を刺す。
掘られた文字は『陽、ここに眠る』。
ドクドクドクドクと、規則的な鼓動を感じながら晴彦は1人きりに戻った屋敷を眺めていた。
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