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「そういえば、最近『彩さん』って呼ぶの嫌がらなくなりましたね」
名前の件で思い当たったのか、蘇芳は唐突にそう言うと、じっとこちらを眺めた。こいつに出会ったばかりの頃は定番だった、「彩って呼ぶな」「だって彩さんでしょ」の問答のことを言っているのだろう。そういえば、いつからか自分の名前の呼び方にこだわることをなんとなく忘れていた。
「別に嫌がってたわけじゃないけど」
そう言って肩をすくめるが、蘇芳はやはり見透かすように瞳を細める。
「でも、ちゃんと呼んでほしかったんですよね? もう一文字にも、願いを込めてたから」
「……なんだ。気づいてたのか」
「だって、そのまんまじゃないですか。彩さんらしく捻りがない」
「願いに捻りは要らないだろ……」
おれは家族もいない妖で、だから当然名前など持たなかった。そんなおれに、明誉は教えてくれた。人間は、願いを込めて子どもの名を名づけるのだと。「名前」を呼ばれるたびに、人はその願いに近づいていけるのだと。
だからおれは、自分の「願い」を明誉に伝えた。そしてこの名をもらった。
「彩」のある、「人」になりたい――それが、白き半妖であったおれの願いだった。
「まぁ、正しく呼んでもらえるに越したことはないんだけど……けどまぁ、最近は、別にいいかなって」
そう言いながら、隣を歩く蘇芳に学生証を差し出す。蘇芳はそれを受け取って財布の中に収めながら、どこか満足そうな表情でふっと笑った。
「そうですね。『彩』さんでいいんじゃないですか。その方が呼びやすいし」
「……理由が軽いぞ」
「呼びやすいに越したことないですよ。その分、いっぱい呼んであげますから」
柔らかな口調でそう言われ、おれはたじろいだ。思わず立ち止まって蘇芳の顔を眺めるが、当の本人は相変わらず涼しげで、足を止めたおれを眺めて「なにしてんですか」というように首を傾げる。
「またそうやって……おれを丸め込もうとするな!」
蘇芳の肩をうしろからべしっと叩いて追い越すと、後ろから可笑しそうに笑う声が追いかけてくる。
「どう考えても、この程度で丸め込まれる彩さんのほうに問題ありますけどね」
構内には、いつの間にか紅く染まった葉がふわりふわりと風に舞い始めている。まだまだ温かさの残る陽の光は高く澄んだ青空からまっすぐに降り注ぎ、金と朱のコントラストをいっそう鮮やかに引き立てる。そんなカラフルな風景の中で、一番目を惹かれるのがよりにもよって「黒」だなんて、なんだか悔しいなと思った。
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