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その「報せ」を聞いたのは、心地の良い風が秋色の木々を揺らす、晴れた日の午後だった。
いつもと同じように生協のパラソルの下でコーヒーを片手にのんびりとした時間を過ごしていると、なぜか少し慌てた様子の恭介がおれの姿を見つけて走り寄ってきた。すっかり元通りに元気になったはずなのに、なにかあったのだろうかと心配になりながら、テーブルの上に広げていた論文のコピーや研究誌をまとめて恭介のためのスペースを空ける。
「どうかした?」
そう尋ねると恭介はいつものように向かいの席には座らず、すぐに話し始めた。走ったためか少し乱れた柔らかな茶色の髪は、秋の風景によく映える。
「彩、蘇芳くんが転学するって、ほんとか?」
「…………え?」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。間抜けな声で聞き返してから、口の中のコーヒーの苦みをもう一度嚙み砕くように小さく唇を噛む。
「……知らない、けど、この間学生課にいた」
蘇芳には関係のない場所なのにと思っていた。バイトも、単位も……あいつはすでにちゃんと「こなして」いる。でも、ひとつ見落としていた。おれ自身も、最初はそれを望んでいたくせに。蘇芳が、「絵に関わる場所」にいることを、あんなに望んだくせに。
「学生課……? 転学の手続きってこと……? おれは、友達から噂で聞いて……蘇芳くんに、海外の大学から特待の話が来てるとか……それで、今たまたま本人に会って」
「……蘇芳、なんか言ってた?」
「や、なんか急いでたみたいでそんなに話せてないんだけど。『どこか行くのか』って聞いたら、『ちょっと絵を描きに』って言ってたから……」
そんな、ちょっとそこまでみたいなノリで転学だか留学だかを告げるなんて、いかにも蘇芳らしい。「なんだそれ」ってツッコんでやりたいのに、心臓の音はいとも簡単に冷静な思考を塗りつぶしていった。古びた研究誌の上でぎゅっと拳を握りしめたおれを、恭介は心配そうに見下ろした。
「……彩、大丈夫か?」
優しい声色にそう尋ねられ、おれは顔を上げた。気遣うような恭介の表情越しに見える風景は、今このときにも刻々と遷り変わる、繊細で艶やかな秋の色。おれよりももっと、恭介や蘇芳の時間は有限だ。その時間の中で、あいつが描こうとする「色」があるなら、おれは目を逸らすべきじゃない。
「びっくりしたけど、大丈夫。そういうことなら餞別でも用意してやるかな」
にっと笑って見せると、恭介は聞き分けのない子どもを見るような表情で眉尻を下げ、肩をすくめた。
「そもそもが噂なんだし、今の会話だけじゃ本当に留学するのかなんてわからないだろ。そんな寂しそうな顔する前に、ちゃんと本人に聞いてこい」
そう言って、恭介はためらいがちに伸ばした手でおれの髪をふわりと撫でる。ぎこちなくも優しい感触に、無意識に込めていた掌を握りしめる力が解けるように緩んでいく。
「寂しそうな顔なんてしないから」
顔をしかめてそう言うと、恭介は呆れたように笑った。
「よく言うよ……。置いて行かれた捨て犬みたいな顔、してたぞ」
なんだか絶妙に的を射た表現に、おれは目を瞬いた。
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