99人が本棚に入れています
本棚に追加
目ざとい蘇芳に気づかれないように小さく唇を噛んで、それから顔を上げた。
「気をつけて行って来いよ。元気でな」
「どうも。それを言うなら彩さんですけどね。しばらくは色喰い現象も落ち着きそうとはいえ、おれがいない間にその辺で野垂れ死なないでくださいよ」
「…………別に、平気だよ。数年くらい、おれにとってはどうってことない」
言い聞かせるつもりで呟いた言葉は、意外なほど頼りなく響いた。おれが越えてきた時間に比べれば、本当にどうということはないほどの時間。この黒が、しばらく視界から消えるだけだ。それでもなんだか自分の輪郭が揺らいでしまいそうで、咄嗟に俯きかけたおれの頭上から、蘇芳の訝し気な声が降って来た。
「…………数年?」
「え?」
「数年って、なんです? おれが行くの、一か月ですけど」
「……いっかげつ?」
「そうですよ。授業だってあるし。彩さん、おれを留年させたいんですか?」
「……いや、だって、おまえ『学校に絵を描きに行く』って、言ったじゃん。学生課で手続きなんかしてたし……美術系の大学に転学とか、留学とかするもんだと、てっきり……」
「あぁ。そういうことですか。おれの言ったのはそのまんまの意味ですよ。廃校になる学校の壁に、絵を描きに行くんです。この間彩さんと会ったときは旅費の学割申請してただけです。町おこしのプロジェクトらしくて、全国からプロアマ問わずの公募をかけてた。応募して採用されたんですよ。すごいでしょう」
蘇芳は珍しく得意げに表情を緩めてそう言う。ゆっくりとその言葉の意味を咀嚼したおれは、へなりと身体の力を抜いた。
最初のコメントを投稿しよう!