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「彩ー。起きてるかぁ? っていうか、生きてるか?」
少し色あせたような赤色のパラソルの下で、青空と新緑のコントラストをぼんやりと眺めていたおれの視界に、馴染みの顔が映り込んできた。油断すると勝手に彷徨っていってしまいそうな、覚束ない意識とピントを無理やり引き戻す。
「おはよう、恭介……今、何時?」
「おぉ……恒例の『彩って呼ぶな』すら出てこないとは……。こりゃ重症だな。昨日、何があった?」
呆れたような表情でそう言いながらも、おれの一番好きな配分でブレンドしたカップコーヒーを差し出してくれているのは、隣の研究室に生息している小柴 恭介。付き合いも長く、おれの習性を熟知しているこの男は、こういうときに無駄な問答はしない。
「昨日……昨日、か。カロテノイドの色素を抽出するのに、塩酸は有効ではないことがわかった」
「それ、先週じゃなかったか?」
「そうだっけ……じゃあ、クロロフィルにアセトンの有効性が判明したんだったかな?」
「それも3日前に大騒ぎして報告に来ただろうが。そんな調子で薬品いじるなよ。彩は、今日はもう終業。帰って寝なさい」
恭介はそう言って苦笑した。相変わらず柔らかそうな猫っ毛が、春の風にふわりと揺れる。あったかいミルクで作ったカフェオレのような優し気な茶色。自分の研究もそつなくこなしながら、こうしておれの動向まで正確に把握している。優秀な人物というのは、自分の能力の使いどころを選ばないようだ。
「ん~……。けど、もうちょっと採取数増やしたいんだよな……」
手元のアイスコーヒーをずず、と啜りながら、独り言のように呟いた。たしかにここ数日は睡眠時間が足りていない。今年中にめどをつけたい研究の進み具合があまり芳しくないのだ。ひんやりとした苦みが喉元を通り過ぎると、少し頭の中にかかりっぱなしの靄が払われるような気がした。
「採取くらいなら、手伝ってやろうか?」
「え、いやいや。恭介だって自分の実験があるだろ。昼寝がてら、のんびりやるから」
「昼寝がてらって……。おれは別にいいんだけどな。まぁ、無理はすんなよ」
恭介は微かに眉尻を下げると、肩をすくめてそう言った。
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