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沈んだ気持ちのままバイトを終え、従業員用の駐車場へ行くと、薄闇の中、自転車の脇に人影が見えた。一瞬足を止め、相手を確認して思わず駆け寄った。
「北斗!」
「よ、お疲れさん」
「珍しい、どうしたんだ?」
「一緒に帰ろうと思って待ってた。今日学校で書類渡されなかったか?」
尋ねられたけど、丸山先生は配ってなかったような……。首を捻ると、北斗が納得したように頷いた。「瑞希の担任、丸ちゃんか。なら早くてもあさってだな」
『丸ちゃん』。北斗が愛称で呼ぶなんて珍しい。
そういえば去年一‐Cの担任だったんだ。
「配布物を遅らせる名人だからな。あれがなかったらいい先生なんだけど……」
一年の時かなり迷惑したのか、一人ぶつぶつ言ってる。
「で? その書類がどうしたって?」
続きを促すと、
「ああ、親の印鑑がいるから義父さんに渡すついでにランディーの餌買って来た」
そう答えて、前かごに突っ込んである鞄と買い物袋を指差した。
「大分待った?」
「いや、バイト終ったの六時だ、さっきここに来たところ。自転車なかったらどうしようって思ったよ」
「声掛けてくれてたらよかったのに」
「ギフトコーナー見たら、お前一心に筆動かしてたから、邪魔しちゃ悪いと思ってペットショップで時間潰してたんだ。久しぶりだったんで畑山さんと話し込んで―――」
ふと、声を途切らせ足元に視線を落とした。「最近、ランディー食欲減ってきてるから、相談してたら遅くなったんだ」
……やっぱり北斗も気になってたのか。当然だよな。
「十三年になるもんな。で…何て? 何かいいアドバイスしてもらえた?」
「ん、餌はやっぱりシニア用がいいだろうって。量が僅かでも、毎日変わらず食べてたらそれ程心配いらないから、飲み水を欠かさないように気をつけろって言われた。特に昼間、留守にしてるだろ、それと…これから暑くなるから、その方が気になるって」
「あーそうかも、毛皮着てるし。でも暑さはどうしようもないな」
「まあな」
ランディーの話をしながらハンドルに手を掛けた俺を、北斗が遮った。
「何?」
「こいでやるから後ろ乗って」
「え、…いいよ、お前後ろ乗れよ」
「俺が後ろで……本当にいいのか?」
「え? うん、何で?」
念を押され、首を傾げた俺を覗き込んで意味ありげに笑いながら、
「何するかわからないぞ」
なんて物騒な事を言う!
「バ……やめろよな、そういう冗談」
睨みつけて進行方向に自転車の向きを変え、ハンドルを持ちかけたけど……気持ちの方がどうにも落ち着かなくなった。
ほんとに何されるかわからない気になってきたんだ。
くすぐるくらいしてきそうだ。
「――やっぱ俺、後ろに乗る。けど、安全運転で頼むよ」
変に揺らしたりスピードを出してしがみ付かざるを得ない状況にさせられそうで、一応念を押しておいた。
「わかってるよ。じゃ、行くぞ」
荷台に跨ってサドルの後ろに手を掛けると、
「おい瑞希、それ危ないぞ」
すかさず北斗が注意を促した。だけどこんな往来で腰に腕を回すのが何となくためらわれた。
すると、溜息を吐いた北斗がのろのろと、〝超〟が付くくらいゆっくり自転車を転がし始めた。
「ちょっと! 何なんだ、このスピードは! 歩いた方がよっぽど早いよ」
「お前が『安全運転』って言ったんだろ。そんな持ち方されたら危なくてスピード出せやしない」
う、…一理ある。
仕方なく北斗の身体に腕を回して、「これでいい?」と聞いた。
「OK! 離すなよ」
「うん」
それを合図に、自転車が勢いよく夕闇に包まれた夜の街を走り出した。
「今日は俺もランディーの散歩行くから」
不意に、前から声がした。「瑞希、素振りするんだろ?」
「うん、そのつもり」
「じゃあ俺、バット持って行こうかな」
「……それって、俺達危ない奴らに見られない?」
「ハハ、かもな。けど暴漢防止にはもってこいだ」
「その前にこっちが警察に通報されそうだよ」
「う~ん、その可能性も確かにあるな。ならバットは止めとく。二人で補導されたらお袋に怒られそうだ」
北斗の明るい笑い声と、お袋という言葉で、さっきの加西さんの台詞を思い出した。
『あの子だったら応援したくなる……吉野君も―――』
普通の親は、付き合う相手が北斗みたいな奴なら反対なんかしないだろう。 そんな男と同等に見てくれたのが、嬉しいけど……苦しい。
俺を知った時の落胆が……自分と彼女だけの問題じゃなくて、相手の両親にも重く圧し掛かる事になるんだ。
親のいない俺には、自分の親より大切な存在になるべき人達に……。
加西さんと話していて、その事に初めて気付いた。
怖れにも似た感情に、心も身体も支配されかけて、北斗に回す腕に力がこもった。
額を背中に押し付けて、ぎゅっと固く閉じた眦に涙が滲む。
―――泣くな、こんな事で。
そう言い聞かせる自分と、こんな思いがいつまで続くのか……と怯える、まだまだ不安定で未熟な自分。
そんな想いを察したように、北斗が声を掛けてきた。
「どうした? 何か…あったのか?」
「……ん、……別に」
涙声になったの、気付かれた? 大丈夫だった?
「――夜桜、綺麗だろうな」
何も訊かずに北斗が話題を変えた。
わかってしまったんだ。
「……うん。凄いよ」
いつも励まされてばかりの俺だけど、もう少しだけ支えて欲しい。
ちゃんと一人で歩けるように、必ず強くなるから。
「北斗、いい匂いする」
精一杯、何気ない風を装って話しかけた。
「ん? ああ、シャワー浴びてきたからな。けど俺は今、カレーの匂いが鼻腔を掠めたぞ。どこかの夕飯もカレーだな……」
心なしか、自転車のスピードが落ちた。「腹減った~。夕べ残ったカレー、先に食べたい気分だ」
いつもだったら俺が言う台詞で、わざと気持ちを明るくしてくれる。
「じゃあ、食べてから腹ごなしの散歩にしようか。ランディー待ってくれるかな?」
「学校ある日より二時間近く早いんだ、許してくれるさ」
「そうだな」
二人笑い合った時「ワン、ワンワン」と、ランディーの鳴き声が聞こえ、家への到着を知らせた。
同居して半年、北斗より早く真っ暗な家に帰る俺の心に、一番に明かりを灯してくれる、ランディーの「お帰り」の挨拶。
いつの間にかこの老犬も、俺にとって欠かすことのできない大切な存在になっていた。
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