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遅めの朝食を済ませ、茶碗を洗い終わり、濡れた手をタオルで拭いていると、北斗が「ほら」と言って、固く絞った冷えたタオルを冷蔵庫から出してきた。
「え、…何これ?」
「今日も二時からバイトだろ? その顔で行ったらさすがにやばい」
「ああ、うん。……ありがと」
意地悪で優しくて、すぐふざけるくせにすごく真面目で……訳のわからない奴。
でも、やっぱり俺、こいつが大好きなんだよなー。
タオルを受け取って、ソファーに寝転び瞼に乗せた。冷たくて気持ちいい。
そういえば一年前も、北斗に『帰ったら冷やしとけ』って言われたんだ。
……俺、毎年同じ事やってるのか? 進歩なさ過ぎる。
せめてこれから先はもうちょっとましな自分になりたい。
「瑞希、ちょっと聞きたい事あるんだけど、いいか?」
三十分ほど経った頃、リビングに戻ってきた北斗からは、微かに石鹸の香りがした。
「うん…いいけど、ごめん、洗濯。ありがと」
タオルを乗せたまま謝る俺の足元に「干しただけだ」と答えながら浅く腰掛け、
「夕べの『孫の子守』の台詞、言ったの誰?」
「………」
一番答えたくない事をついてきた。
黙り込む俺の足元で、クスッと笑う声がした。
「なんてな。わざわざ聞かなくても、大体想像つくんだけど」
「何で? わかるわけないだろ。その手には乗らないよ」
「そんな話が出るって事は、ギフトコーナーの従業員だろ? その中で孫って言ったら加西さんしかいないじゃないか」
勤めて冷静に答えた俺に、北斗が意外にも本当に推理した結果を明かした。
「すごい。お前、名前知ってるんだ」
「あのな、二週間近くバイトしてたら従業員の苗字くらいすぐ覚えられるだろ。それに加西さんの子供は俺達の後輩だし」
「その事も知ってるのか?」
「当たり前だ。瑞希も会ってるぞ」
「はあ?」
そう言われ、眉間にしわを寄せて考え込んだ。
……俺の会った、一学年下の女の子?
「あれ、もしかして合格発表の時に会った、スレンダーな方のマネージャー希望の子?」
「そう、加西夏生。名前通り夏生まれの元気な奴だ」
わかる、親子だって。言われて初めて気付いたけど、雰囲気が似てる。
「あの子か。でも、俺の事はわからなかったみたいだ」
「ん?」
「加西さんがさ、『吉野君の事、あの子にはすぐわかる』って言ってたから。でも変わったリアクションしてなかったし」
二週間ほど前の事を思い返して言うと、「いや」と、北斗が否定した。
「わかったんじゃないのか、一瞬何か言いたそうだったぞ」
「そう?」
「ああ。でももう一人の子が、えーと…坂元だったか、すぐお前に話しかけただろ?」
「うん? …あ、そういえば名前訊かれた」
「だから止めたんじゃないか、一緒に見られるのが嫌で」
「え? わからない。どういう事?」
「んー、お前の気を引こうとしてると思われるのが嫌で、口を閉ざしたって事。坂元はそういう子だけど加西は正反対だし、なにしろ中学の時から結城キャプテン一筋だからな」
「え! 北斗を追いかけて西城に来たんじゃないのか!?」
がばっと起き上がった途端、当てていたタオルが落ちて、目一杯至近に北斗の顔があった。
慌てて後退り、足を引き抜いてソファーの背にもたれ、もう一度タオルを乗せる。
そんな俺を眺めていた北斗の口からは、呆れたような声が零れた。
「はあ? 何だ、それは? …あー、それも加西さんだな」
火種を見つけて「そういうことか」と、一人納得している。
「全く…いい加減な事言って俺の瑞希を泣かせるなんて、許せないなあ」
などと勝手な事を言い出した奴に、
「ちょっと待て。いつ、俺がお前のものになったんだ?」
当てたばかりのタオルを外して、睨もうとしたら…言葉とは裏腹な、穏やかな色味を帯びた瞳で、俺を見つめていた。
一番好きな……だけど優しすぎて、何故か少しだけ苦手になってしまった眼差し。
「――別に俺は、その加西って子が北斗を追って西城に来た、って言われたのに関しては、全然、何とも思ってない」
「そうか?」
「当たり前だ。北斗相手にそんな事でいちいち泣いてたら、目が溶けてしまう」
「……お前の涙は硫酸か? なんかものすごくグロテスクなもん想像したぞ」
「じゃあ言うなよ!」
言い返しながらも、昨日から胸に刺さっていた小さな棘の痛みが消えていったのを確かに感じた。
こうやってソファーで二人戯れながら、塞いでいた気持ちが明るく晴れていき、やっと心から笑う事ができた。
「今日のバイト、大丈夫そうだな」
俺の肩に腕を回した北斗が、顔を覗き込む。
「そう? 瞼、ましになった?」
「それは何とも言えないけど……」
「えー、まだ腫れてる?」
「そんな簡単には引かないだろ。夜更かしし過ぎたとでも言っとけ、それで十分通るくらいには治まってる」
目をじっと見詰めてそう言う北斗の、本心を悟った。
夕べの事が尾を引いてないか、心配してるんだ。
「よかった。今休むわけにいかないから」
そう返事すると、北斗が小さく頷いて肩に回した手で俺の髪をくしゃっと撫でた。
その瞳には、やっぱり肉親に対する愛情しか見出せない。
安堵していいはずなのに……何故かほんの少しだけ、物足りなさを感じていた。
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