小手調べ

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小手調べ

 その日の放課後、剣道部の道場には二十人近い一年生が見学に来ていた。  初日に来る子は中学の時の経験者がほとんどだ。恐らく半分は入部してくるだろう。  駿も、今頃メイングラウンドにいるはずだ。  ふと山崎の嬉しそうな顔が浮かび、思わず笑ってしまった。  夢への第一歩だ。みんな頑張れ!   誰へともなく心の中でエールを送り、部室兼更衣室で稽古着に着替え足早に道場に向かう。  真新しい運動靴が並ぶ入り口で礼をして中に入ると、両側の壁伝いに立つ一年生が次々に頭を下げる。  久しぶりに味わう先輩としての立場が、気持ちを落ち着かなくさせる。  この関係に慣れるには、かなりの時間が必要に思えた。  準備運動と基本練習を終え、一対一の打ち合いを始める前、五分間の休憩を取っていると、千藤先生が竹刀袋を手に姿を見せた。  気付いた主将が声をかけ、座って雑談をしていた俺達も一斉に立ち上がり、バタバタと走っていって、先生の前に整列する。  それまでのざわめきが嘘みたいにしんと静まった道場に、低く通る声が響いた。 「これからお前達の力量を見たいと思う。個人のデータはノートを見させてもらった。それを参考に一本ずつお前らと試合をしたい。誰からでもいい、一人ずつ出て来い」  新監督の指導方法は、実戦にあるみたいだ。  先生が防具を着ける間に主将が順番を決め、三年の安達先輩が開始線に行き、後の者は道場の端に正座して番を待ちながら目の前の二人に見入った。  新一年生も、雰囲気のがらっと変わった稽古場に戸惑いつつも、試合の行方を息を殺して見つめている。  そんな静寂の中、二人が竹刀を合わせて蹲踞(そんきょ)すると、一本先取の真剣勝負が始まった。    安達先輩の掛け声と共に、竹刀を打ち合う音が道場に響く。  勝負は一瞬。数度打ち合ったところで、先生の竹刀が先輩の小手を捕らえた。  データ全て頭に入っているのか、安達先輩の苦手な所だ。  偶然? それとも……。  やっぱり、意識してのものだった。  四番目、相模主将の時、確信に変わった。  俺の頭にあるものと同じ。先輩、左からの胴への攻めの受けが苦手で、反応が少し遅れるんだ。だからそう見せかけて、意識がそっちに向いたところで切り返して面を打つ。  何回か使った手を、千藤先生は一度で見極め仕掛けた。  この先生、付け入る隙がない。誰も防戦一方、攻撃なんてできやしない。  次々に相手が替わり二年生に移る。でも二年生はもっと早く片が付いた。  唯一、新見が粘って(つば)迫り合いになったけど、彼の重い竹刀でさえはね退けられてしまった。  どこを攻めたら勝てるのか……弱点を探す間もなく、新見も面で勝負がついた。  長身の新見に面で決めるのが、ほんと憎らしい。それに安達先輩から始めてまだ三十分経ってない。  一体何者だ? 玉竜旗で二年連続十人抜きした人って、こんなに違うものなのか。  俺も面を着けて用意しながら、今までにないくらい胸が高鳴るのを感じていた。  この一本勝負でも、またラストだった。  俺の人生、半分以上最後に番が回ってくる……つまらない事を考えながら立ち上がって開始線に進み、蹲踞して立ち合った途端、ものすごいプレッシャーがかかった。  見学している時にはわからなかった、この気迫。  十四人の相手をして疲れるどころか、勘を取り戻したように気が満ちているのが伝わってくる。  攻め込んでも、打ち返されるイメージしか浮かばないから、迂闊に踏み込めない。  こんな事、初めてだった。  ―――圧倒的な存在感。  不意に、北斗のプレーを見た時の事が頭をよぎった。  あの時、その才能に対する嫉妬はなかった。ただ、呆然と魅せられていた。 それは俺が野球を目指してなかったから。だけど……今、目の前の人は違う。  俺の進もうとしている道の、遥か先に悠然と立っている。  そう認識した刹那、闘争心に火が点いた。  全神経が相手に集中して研ぎ澄まされ、じりじりと間合いを詰め、様子を探る。  そして相手が、小手を狙って仕掛けてきた。  わかっていたのにそのスピードについていけず、かわすだけで精一杯だった。  (たい)を立て直す間もなく一気に攻められて、ぎりぎりのところで何とか凌いだ。  反撃のチャンスを作りたかったけど、その隙すらない。  まだ一分程しか経っていないはずなのに、全身から汗が噴き出した。  本当に強い!   ここまで圧倒的に強い人、初めてだ。  こんな凄い人が俺達の監督だなんて、ほんと嬉しい。  不謹慎にも勝負の真っ最中に、これから先の事を思ってわくわくしていた。  相手の動きを読み、応戦する事に夢中になっていた俺は、「それまで」という先生の声ではっと我に返った。  シンとした稽古場に何故か拍手が起こり、面を外した先生が近付いてきて声をかけた。 「よく堪えたな、防御はまあ合格だ。だが消極的すぎるぞ」 「……はい」  平静な声、呼吸も乱れてない。こっちは息も切れ切れなのに。  それに先生にその注意を受ける事もわかっていた。  俺、一本も攻めてない。 「付け入る隙がなかったらそれを作るよう仕掛ける。これからの課題だ」 「はい」 「だが、お前のは経験不足だな。もう少しレベルの高い者と対戦して動きを見極める事が必要だ」 「はあ……あ、いや…はい!」  でも、レベルの高い相手…って、他校にでも行かないとここではもう俺と五分以上の人はいない。 「まあ当面は俺が相手してやる。本当は色々個性のある者とした方がいいが、贅沢も言えないからな。よし、上がれ。次、安達来い」  最初の先輩を呼ぶ先生に「ありがとうございました」と一礼して、新見達の所に戻る、その足元がふらついて壁に手を付き、もたれるようにずるずると座り込んだ。 「おわっ! 吉野!? 大丈夫か?」  久保が身体を支えるようにつかまえ、本城が面の紐を(ほど)きながら、興奮気味に声をかけてきた。 「凄いよ吉野! 僕、一年生につられて思わず拍手しちゃった」 「……ああ、さっきの拍手……」  上がった息を整えつつ、苦笑が洩れた。「ハハ、凄いのは先生だよ。……試合だったらとっくに反則負けだ」  答えながら面を外してほっと息をついた。道場の中でさえ涼しく感じる。  それにしても…すごい汗。 「見て、これ」  こめかみから頬に伝い落ちる(しずく)を指差すと、久保がまた驚いて声を上げた。 「うわ! 吉野がそんな汗流してるの、初めて見る」 「最初の一分程で、もう全身汗だくになったんだ。強すぎて攻める所なかった。完敗だ」 「いやいや、お前も十分凄かったぞ。だけどあの先生……マジ強すぎるよな」 「俺、つば迫り合いであんなに簡単に負かされたの、初めてだ」  新見が先生をちらっと見て、悔しそうに呟く……その気持ち、すごくよくわかる。  ポンポンと肩を叩いて慰める俺に「これ使って」と、本城がタオルを差し出してくれた。 「それにしても千藤先生、もう一人一人の癖や弱点覚えてるんだね。僕、面を打ってこられるのまだ慣れなくて、相手に狙われたらビビッちゃうんだ。そこ、確実に衝かれたよ」  渡されたタオルで汗を拭きながら聞いていた俺は、彼の着眼点に内心驚いた。  基本に忠実で素直な本城は、癖のない竹刀(さば)きをする。  剣道を始めて二年目、同級生の中で強いとは言えないけど、大事な所はしっかりと理解し押さえているし、何より周りへの心配りを忘れない。というか、常にそういう姿勢で物事を捉えている。    自分の事を『弱い』と言った彼。  だからできる事を探している内にそれを身につけたのか、元々の性質なのかわからないけど、俺は指導者として一番大切な事だと思う。  自分の強さを追及するより、周りに目を配り、個性や長所を伸ばして短所を減らす。  中学の時、キャプテンをして痛感した。  剣道に関して、俺の本質は自己中心的だ。  後輩に目を向け、一人一人に声を掛け、指導するという事が苦手だった。  そっちは副キャプテンの雅也に任せて、実際に打ち合う中で、俺の技術を学ぶなり、盗むなりさせるやり方でしか、後輩と向き合えなかった。  去年の夏、中学校に寄った時、後輩が俺と対戦したがったのも、そういう形でしか教えてやれなかったせいだ。  雅也が行っていたら、もっと和気あいあいと相談を受けたり、一人ずつチェックを入れて的確に短所を教えてやれたはずで、後輩は自分の癖や欠点をきっちり直せていただろう。    主将になるのを迷う一番の理由――『忙しい』とかは口実だ。  本当は主将の器なんかじゃないのを、誰よりもこの俺が知っているんだ。  実戦と、俺の不得手な指導の両方を、事も無げに済ませた千藤先生が全員を呼んだ。 「一通り長所と欠点は伝えたと思うが、データとたった一本の打ち合いで、お前らの事が全てわかったとはもちろん思っていない。だが、いい部だと感じた」  うわ……。こんな人にそんな事言われただけで、なんか嬉しい。落ち込みかけた気分が浮上していく。  この監督、剣技だけじゃなくて、心の方もすごく深そうだ。  俺だけじゃない、先生の強さに飲み込まれて自信喪失気味だった部員の眼差しが、尊敬と憧れに変わった。  その表情に満足した先生が、これからの予定を告げた。 「まずは地区大会、それから六月頭の県大会だ。それらに合わせて徐々に調子を上げて行く。暑さ対策と体調管理は自分達でしっかり行うように。以上、解散」 「ありがとうございました」  挨拶をして、いつもより十分ほど早く部活を終えた初日、防具を手に部室に引き上げる先輩と、用具室にバケツや雑巾を取りに入る俺達。  この一年ずっと続いていた光景だ。  床掃除は未だに固く絞った雑巾で拭いていく。でも、これもあと数日の事だ。一年生が入部したら役目交代になる。  見学者の内、数人はもう千藤先生の元に走って行って、入部用紙を手渡していた。  今年何人が入部して来るのか、その中にはどんな奴がいるのか。  俺には楽しみでも、本城にとったらやっぱり気が重いんだろうか?  同じ出来事でも、人によって感じ方は様々だという事を、今更のように胸に刻み、新見と楽しそうに話しながら、斜め前を拭いて行く本城を見遣った。 
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