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「吉野ってほんとマメだよなー。帰ってからゆっくり風呂入れば?」
部室備え付けのシャワールームで汗を流す俺に、いつも遅くまで残っている久保が外から声を掛けてきた。
密閉されているわけじゃないから、話くらい楽にできる。
「めんどくさいだろ? 満員電車に乗るわけじゃなし、家まで自転車で帰るだけなのに」
「汗臭いの嫌だ。それに防具の臭いが移る」
「わからん。まっすぐ家に帰るのに、何でここでシャワー使うのかが」
バイトの事は最小限の奴しか知らない。
ギフトショップのカウンター内での仕事と時間帯とが、気付かれにくい理由だと思っている。
ただし、坂元にかかったらあっと言う間に暴かれそうだけど、とにかく自分から言う気は更々なかった。
「西城が元男子校でよかったよ。柔道場もだけど、武術関係の部室の設備、行き届いてるもんな」
シャワーのコックを閉めて湯を止め、掛けておいたタオルで濡れた身体を拭きながら、さり気なく話題を逸らすと、久保も深くは追求してこない。
「まあ他の部は人並み程度だからな。でも俺達ついてるぜ、まだ改築して何年も経ってないから」
「え、そうなのか?」
脱衣スぺースへ移り返事を返すと、久保が胸丈までの扉越しに数年前の先輩の苦労を教えてくれた。
「兄貴がよく愚痴ってたんだ。建て付け悪くて、シャワー使ってたらドア勝手に開くし、一つしかなかったから取り合いだったって。ロッカーとかも無くて、棚に服置きっぱなしで……今じゃ考えられないよな」
「お兄さんはじゃあ綺麗好きだったんだ」
話しながら下着とズボンを身に着けてシャツを羽織り、稽古着を抱えてシャワールームから出た俺に、久保が「何で?」と、首を傾げて見せる。
「たった今、『シャワー使ってた』って言ったじゃないか」
自分のロッカーを開け、ザックに洗濯物を詰め込みつつ、パイプイスに座る彼に目をやると、頬杖をついていた片手がひらひらと振られた。
「兄貴は綺麗好きっていうより彼女の為だ。帰り道はデートの時間だったんだ……」
言うや否や、イスも吹っ飛びそうなほどの勢いで立ち上り、
「まさか! 吉野もそうなのか?」
テーブルに手をついて叫び声を上げた。
「そんなわけないだろ」
勢いに気圧され、思わず馬鹿正直に答えてしまった。「しょうもない事でいきなり大声出すなよ」
一人慌てまくる久保に呆れて文句を言い、何故かほっとしたような表情で座り直す彼を、不思議な気分で眺め、ネクタイを結ぶ。
先を越されたと思ったのかな? 俺相手にそんな心配無用なのに。
そう思っていると、
「やっぱタイまできっちりするのね」
今度は脱力するような女言葉だ。俺には久保の頭の構造がわからない。
「何だ? そのしゃべり方は?」
「いやぁ、もう帰るだけだし、吉野の乱れた姿見た事ないから、一度くらいシャツのボタン外してリラックスしてる所、見てみたいなぁ…とか思ったりして」
「――『乱れた姿』って何? 気色悪い言い方するなよな」
含みなんかないと十分承知していても、この手の話題は今の俺にはきつい。
平静を装って笑いながら話せるほど、俺は大人じゃない。
自然と低くなった声音に、久保がやれやれと首を竦めた。
「わかってるって、お前がそういう類の話嫌いなのは。でもさあ、あんまりきちっとしてると、余計に男心を刺激するというか何と言うか……」
ごにょごにょと口の中で呟く内容は、俺の耳にもしっかり届いた。
「何で男の俺が、男心を刺激するんだ? それにこれくらいどうって事ない。詰襟に比べたら楽なもんだよ」
実は、最近やっとネクタイを結ぶのに慣れたんだけど、圧迫感から言えば学生服の方が遥かに苦しく感じていた。確かめるように襟元に指を入れ、ついでに整えると、暇そうに俺を眺める久保に帰宅を促して、ブレザーを羽織った。
「それよりもう帰ろ。お前どうしていつも残ってるんだ? 電車だろ、遅くなるよ」
問いかけた俺を見て、呆れたようにかぱっと口を開けた久保が、はあーっと息を吐いて肩を落とした? と思ったらすぐに顔を上げて立ち上がり、つかつかと歩み寄ると、俺の鼻先に人差し指を突きつけてきた。
「あのねえ、吉野に付き合ってやってんだよ! お前みたいな奴、一人にさせといたら危なくてしょうがない」
あれ、そういえば他に部員がいる時は、こいつの姿見なかったっけ。
「何で? 一人は慣れてるから大丈夫だよ」
首を傾げて久保に問いかけると、つられる様に彼も何故か腕組みして考え込んだ。
「まあな。今日、先生の相手を対等にするお前見て、俺も何でかなー? とは思ってるんだけど……」
その返事に益々混乱した。
「はあ? 久保…意味わからない。何だ? その人事みたいな言い方は。お前が勝手に付き合ってるんじゃないのか?」
そう訊くと、久保が「しまった!」と顔中に書いて、両手でばっと口を押えた。
「まさか……頼まれてるとか?」
すると、口を押えたまま首を横に振り、後退りする。それだけで十分怪しい。
「怒らないから言ってみろ。誰に頼まれた?」
「……誰にも」
「誰にも?」
じっと久保の目を見据え近付いていくと、塞いでいた手を拳に変えて、
「吉野、恐い!」
声色まで女っぽく変えて応戦する。
ひょうきんな奴の頭を「気持ち悪いんだよ」と、軽く小突いてやった。
「ま、いいや。大体想像つくから」
前日の北斗との会話の再現みたいだ…と思いつつ、あの時と立場の入れ替わった俺は、この場の主導権をしっかり握り、ザックを肩に掛け、鞄を抱えて先に出口に向かった。
「出よ。俺、お前と遊んでる暇ない」
「あ、冷たいなー。見た目通りクールな奴だよ」
『冷たい』と言われ、「何て?」と振り向いて睨む。
「何でもありませーん」
どこまでもおどける久保を追い立てて部室を出ると、ドアに鍵を掛けた。
二人で他の運動部の部室に隣接する教員室まで、鍵を返しに行く途中、
「でもさあ吉野、何で俺に頼んだのが、相模さんだってわかったんだ?」
久保が、思いもしない人の名前を口にした。
「え、……相模さん?」
立ち止まり、久保を見た俺を、向こうもきょとんと見返して……二人しばし見つめ合い、同時に叫んだ。
「ウソ! 何で主将が?」
「何だよ吉野! 『想像つく』って……一体誰だと思ってたんだ?」
……言えない、というか言わなくてよかった。
てっきり北斗か山崎だと思っていた。
やっぱり俺は北斗みたいにかっこよく決められない。とんでもない勘違いをしたみたいだ。
でも、本当に何でなんだ?
「え……と、久保を……その、引っ掛けてみた?」
自分の失態を取り繕う為、というより久保の追及をかわす為、傷付けるかもしれないと知りつつ、今度は本当に嘘を吐いてしまった。
「はあ? ひっで……何それ、最悪……」
思った通り非難を込めた目で睨まれ、「ごめん!」と、頭を深く下げて心から謝った。
「でも、俺にしたらすごく不本意だったんだ。知らない内に久保に迷惑かけてたってことだろ?」
「迷惑だなんて……思ってないけど……」
本心を包み隠さずぶつけた事で、久保の憤りも少し治まったのか、言い淀み、開き直ったように「ま、ばれたら仕方ないか」と、事実を教えてくれた。
「去年、入部してすぐ相模さんに頼まれたんだ。『吉野を一人にさせないように』って」
「………理由は? 俺、何か…やばい事した?」
「いや、そういう意味じゃないと思う」
「ならどうして?」
「詳しく聞いたわけじゃないけど、一年前…入学したての頃、お前…上級生に目、付けられてたんだ」
「『目、付けられてた』……?」
オウム返しに訊いた俺に、久保が頷いた。
「吉野、まだこっちに全然慣れてなくて、頼りない感じで、それでなくてもその外見だろ? ノーマルな男でもグラッとくるんだよ」
「『ぐらっ』て…こられても困るんだけど、でも……そうか――」
孝史が言った『自分への自信の無さが、男の征服欲を掻き立てる』って、そういう事か。
身体の事もあって、自分に自信が持てなかった一年前の自分。
それ以外にも、戸惑う事が沢山有り過ぎて……。
それに、一人があんなに淋しいものだって、知らなかったんだ。
俺にはいつも、じいさんとばあちゃんがいてくれたから。
「……確かに、心細くてたまらなかったよな」
去年の事を思い出して呟くと、
「こら、目の前でそんな顔するな。俺までおかしな気分になる」
ガリガリと頭を掻きながら、困ったように言う。そんな久保を見てクスッと笑った。
「何、それ。…俺、今もそんなに頼りなさそうに見える?」
「………意識してないっていうか、天然なのがやっかいなんだよなー」
何やらぶつぶつ言いながら、溜息を吐かれた。
だけど俺にだって言い分はあるはずだ。
「でも、ほら…もう一年経ったし、みんなの事もわかってきたから、以前ほど危なっかしくないだろ?」
「ん、それは、まあ」
「ならこれからは俺の事、気にしなくていいよ。相模先輩にもそう言っといて。俺からじゃまずいだろうから、『吉野はもう大丈夫だ』って。それで久保も晴れて自由の身だ」
一見いい加減な久保が、先輩の頼みを律儀に聞いて今まで黙って付き合っていた事と、それに少しも気付かなかった自分に、駿の言葉が重なり、自然と頭が下がった。
「ごめんな。今まで付き合ってくれてたのに、全然気付かなくて。俺、ほんとに鈍いから……ありがと」
すると、久保が怒ったように声を荒げた。
「礼なんか言うな! それに謝る必要もないからな」
ここが運動部の部室裏でよかった。正面だったら、部活を終えた生徒が何事かと思うところだ。
「相模さんと俺は小学校からの友達だ。一番心易いから頼まれたんだ。けど俺、頼まれて嬉しかった。今日、誰よりも強い吉野を見て、何であんな事頼む必要があったのか…疑問ではあるけど、俺はお前を待つ時間、すごく楽しかったんだ」
「そう? 迷惑じゃなかったのか?」
「当たり前だ。俺、めんどくさい事嫌いだから嫌なら最初から断ってた。だからそれに関して吉野が気にする必要ないし、これからもお前が最後になる時は絶対付き合うからな」
宣言されてしまった。
けど、どうしてだろう。内緒で付き合ってくれていた時より遥かに嬉しい。
「ありがと。ならこれからは、久保も俺と一緒にシャワー浴びて帰ろ」
にこっと笑いかけて冗談交じりに誘うと、
「ば……馬鹿! なに言い出すんだ!」
真っ赤になって叫び、その場にうずくまってしまった?
「あれ、久保? どうかした?」
見下ろして尋ねたら、鞄を膝に抱え込み、上目使いに俺を見た。
「………何でもない。……悪いけど鍵、返してきて。それまでには…何とか……」
すぐに俯いて、小さな声でぼそぼそ言う。だけど気分が悪いとかじゃなさそうだ。
「ん、わかった、行ってくる。けど俺急ぐから、早く復活しないと置いてくよ」
彼の身に何が起きたのか知る由もなく、一人教員室に歩いていく。
身体は疲れてくたくたなはずなのに、心は何故かほんのりとあったかかった。
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