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不協和音
その日以降、八人の新入部員を迎えた剣道部は千藤監督の下、稽古内容が一変した。
足捌きに重点を置き、下半身の強化にロードワークを取り入れて、山頂への坂道を走ることきっちり四分。高校で行われる一試合の制限時間と同じ。
テニス部のつけた距離を示すプレートが自分の走行距離だ。
覚えて帰って翌日の目安にする、自分の首を絞めるようなやり方がなんとも意地悪で、千藤先生らしいと文句を言いながらも案外真面目に坂道を駆け上がった。
監督の指導は俺達を迷わせない。要点を指摘してくれるからすぐに修正できる。
実力のある人が教えるとレベルそのものの向上に繋がるんだ。
基礎体力は部活外の自主トレで補い、踏み込みや竹刀の切り返し等、実戦向けの練習が格段に増え、連休前にはもうその効果が出て、一つ一つの技にスピードが乗り切れがよくなった。
そんな指導を受けて嫌がる部員がいるはずもなく、見かけよりずっと気さくな千藤先生に益々信頼を寄せ、当然俺も毎日のように相手をしてくれる監督の期待に応えたいと、今まで以上に集中して稽古に臨んでいた。
四月最終の土、日曜日。
二日間に渡って行われた地区大会で、西城高は練習の成果を存分に発揮し、相模主将を大将に、先鋒‐安達先輩、次鋒‐一年の佐倉、中堅‐新見、副将‐白井先輩のメンバーで臨んだ初日の団体戦では危なげなく勝ち上がり、県大会に向けて大きな弾みをつけた。
二日目の個人戦――
去年、出場予定だった先輩が部活中に足首を捻挫し、急遽大抜擢されて代理で出た俺も、今年は正式に代表選手として選ばれ、辻先輩、それに団体戦と掛け持ちの相模主将も県大会への出場ラインを楽勝でクリアし、幸先のいいスタートを切ることができた。
部活とバイト三昧のゴールデンウィークが明け、県大会まで一ヶ月を切った火曜日の昼休み。
学食から教室に戻り、藤木といつものように話していると、
「――吉野、話があるんだけど、時間取れる?」
本城が、珍しく一人で声を掛けてきた。
「うん。何? 改まって」
「えっと、ここじゃちょっと……」
藤木に「ごめん」と謝って、困ったように言い淀む。
教室では何人かのクラスメートが、まだ昼食を食べていた。
スピーカーからは放送部が選んだポップス調のBGMが軽やかに流れ、話をするには確かに賑やかすぎる。
本城と連れ立って廊下に出ると、D組の前、北棟に続く渡り廊下への階段を下りて、通路の中心にある非常用の二つの螺旋階段に囲まれたスペースに行った。
この学校の渡り廊下はすごく面白い。
二階と三階の間にあるから、北棟の二階、三階、どちらに行くにも必ず階段がついてくる。
半分で済むから楽と言えなくもないけど、外だけでなく校舎の中も段差の激しい造りに、閉口する学生は多い。
だけど田舎育ちの俺は遊び心一杯のこの場所を、銀杏の木のある裏庭の次に気に入っていたりする。
一年の時、渡り廊下を通る度〝サークル〟と呼ばれるこの場所で、雑談したり、中央の柱を囲む丸テーブルで大学案内の資料を捲る三年生を見かけて、密かに憧れていた。
ここは他より少しだけ、大人な雰囲気を感じる場所だったんだ。
さすがに昼休み真っ只中の時間帯だけあって、今この場所には誰もいなかった。
情報誌の乗っているテーブルには行かず、中庭が見下ろせる窓際の桟に肘をつき、「で、話って?」もう一度促して本城を見ると、避けるように視線を外された。
その仕草に、何となく良くない話だと感じ、言い出しにくそうな彼を待ちつつ中庭を見下ろした。
緑が濃くなった庭には色とりどりの花が咲き、平凡な花の名前しか知らない俺でも自然と心和ませてくれる。
中学で世話した花壇の花も、もう見頃を迎えただろうか?
そんな事を考えていると、
「……僕、昨日偶然…三年の先輩の話、聞いちゃったんだ」
陰りのある声が隣から聞こえた。「内容は吉野の事だった」
「俺? なに? もしかして主将にするの、止めるとか?」
だったら本城には申し訳ないけど、すっごく嬉しい! と、都合のいい事を想像したら、表情を読んだのか浮かない顔をして力なく首を振った。
……やっぱり、そんな上手い話あるわけないか。
がっくりと肩を落とした俺に、追い討ちをかけるような台詞が、彼の口から零れた。
「吉野……千藤先生との仲、疑われてるの知ってる?」
「―――え?」
二、三度瞬きして首を傾げた。「……あの、もう一回言ってくれる? 意味がよくわからないんだけど」
すると、本城が細く息を吐いて言い方を変えた。
「千藤先生と吉野が付き合ってるって」
取り違えようもなく、はっきり言われた瞬間、ゾワッと鳥肌が立った。
「何をバカな事! ………」
二の句が告げず、酸欠の魚みたいにパクパクと口を動かす俺を見て、
「そうだよね! あー、よかった」
心底ほっとした様子を見せる本城を、思わず怒鳴りつけた。
「なにが『あー、よかった』だ、俺は全っ然よくない! どこからそんな馬鹿げた話が湧いて出るんだ、ふざけるな!!」
ふつふつと込み上げてくる怒りを抑える事ができず、目の前の心優しい同級生に八つ当たりしてしまった。
剣幕に怯えた本城が、おろおろしながらも懸命に宥めてくる。
「ごめん吉野。お願い、落ち着いて。かっちゃんに相談したら『どうせデマだからほっとけ』とは言われたんだ」
かっちゃん――新見の事だ。
新見は先輩の噂話より俺を信じてくれたのか……そう思って安心したところに「でも…」と、本城が視線を中庭に落とし、暗い声音で続けた。「最近、部の雰囲気がなんだか急に悪くなった気がして……」
「え、ほんとに?」
尋ねた俺を見返す、不安げに揺れる瞳が、部のムードを敏感に察して、多分迷った末に俺を呼び出した彼の苦悩を如実に表していて――
いわれのない疑いをかけられた憤りより、自分の鈍さにまた深く落ち込んだ。
「ごめん、全然知らなかった。いつ頃から気付いてたんだ?」
「……連休前からちらほらと『なんか怪しくないか?』っていうような話があって、嫌な感じはしてた。でも、休み明けには収まるだろうって思ってたんだ。だけど昨日……」
言いかけて口を噤み、俯いてしまった。
「――先輩の噂話、監督との仲を疑ってるだけじゃなかったのか」
こくんと頷く。なのに自分からは言おうとしない。
これは……かなり酷い事、噂されてたみたいだ。
「なあ、言いにくいかもしれないけど教えてくれるか? でないと手の打ちようがない」
「ん、でも……先輩、吉野に嫉妬してるだけだと思う。それに先生も最初に稽古した時、吉野の相手は当分自分がするって、皆の前で言ったし……」
頑なに先輩を庇う心優しい同級生を前に、俺の方が先輩に嫉妬しそうになる。
そんな自身に嫌気を感じつつも、もう一度繰り返して頼んだ。
「本城、大丈夫だよ。何聞いても、もう怒鳴ったりしないから」
勤めて明るく言うと、渋々…だけどやっと重い口を開いてくれた。
「昨日の四時間目、移動教室だったよね」
訊かれて「うん」と頷くと、
「僕、日直で遅れて…急いで北棟に行く途中で二階から上がって来た先輩達と会ったんだ。声をかけて追い越そうとした時、『あれだけ強かったらもういいだろ、って感じだよな』、そう話すのが聞こえて、隣の先輩がすぐに『そうそう、他の部員とのバランスも考えろよ』って。剣道部の……監督の事だと思って、何となく追い越しにくくなった」
言い置いて振り向き、先輩と出会ったらしい場所を恨めしそうに見つめた。
「あの監督にでも不平があるのか……そう思って黙って後をついて行ってたら、もう一人の先輩が……」
途絶えた声に続きを目で促すと、溜息を吐いてまた顔を窓の外に向け、先輩の台詞を口にした。
「『ま、あの美貌だ。性別なんか関係なくやりたい放題なんだろ』、そう言って笑ったんだ。その時ようやく吉野の事だと気付いた」
「何で俺? 『美貌』って……それで俺の事だと言われても……」
言いかけた否定の言葉は、本城の悲しげな目を見た瞬間、何の意味もなくなった。
恐らく本城には確信があるんだ。今、口にしたものだけじゃなく。
そう察し、無駄なあがきをするのは止めた。
「――『やりたい放題』、そう見えたのか」
覚悟していたものの、やはりショックは大きかったみたいだ。
呟いた自分の声が、やけに遠く聞こえる。
すると本城が「違うんだ」と、激しく首を振って声を震わせた。
「そうじゃなくて……身体を売り物にしてるって意味だよ。『どうせ監督に取り入って、抱かれる代わりに稽古つけてもらってんだ』って……」
「なっ………」
今度は鳥肌どころじゃなかった。
その屈辱的な内容と、そういう目で自分が見られているという事実を教えられ、思わず身体を抱きしめた。
「先輩が……『シャワー使って急いで帰るのも、どこかで待ち合わせしてるんだろう』、そう話してるの聞いて悔しくて……吉野はそんな奴じゃないのに、よく知ってるのに……それなのに何も言えず、好きな事言わせてしまったんだ。――ごめん、吉野……」
声が詰まり、瞳にみるみる涙が溢れた。
――馬鹿だ、俺。
本城が庇っていたのは、先輩じゃなくて俺だったんだ。
噂の内容を知った時の俺の気持ちを思いやってくれてたのに……。
「……本城、俺なんかの為に泣かなくていいよ」
ポケットからハンカチを取り出して手渡すと、受け取った本城が目元を押えて、すん、と鼻を啜った。
「………三年と一緒に部室に引き上げるようになって、先輩…疑いを持ちはじめたみたいなんだ。三人が噂してるの聞いて、もしかして本当に……取り入るとかじゃなくて、監督と何かあるのかって思えてきて、だって誰でも惹かれるよ、あの先生……。でも、何もないならちゃんと言って疑いを晴らさないと、これ以上ほっといたら大事な時期なのに、部の中がばらばらになりそうな気がして……」
「そうだったんだ。でもシャワーと千藤先生とは全然関係ないし、……取り入ったりももちろんしてないから、俺は平気だ」
本当は少しも平気なんかじゃなかった。
けど、これ以上本城を追い詰めるような事も言えなくて――
握り締めた拳が微かに震えていた。
「ありがと、本城。ごめんな…無理に言わせて。これからどうすればいいのか、ちょっと考えてみるよ」
そろそろ昼の休憩が終るんだろう。教科書を持った一年生が渡り廊下を数人歩いて来るのに気付き、二‐Eの教室に戻った。
駿の事では色々と気にかけていたつもりだったけど、まさか自分の身にそれが降りかかってくるなんて………。
席に着き、さっきの話を反芻してみたけど、何一つやましい事なんかしてない俺には、この件に対する解決策など思いつくはずもなかった。
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