不協和音

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 それから三日後の金曜日――  中間テスト前の部活最終日、何の手立ても講じないまま過ごしてきた俺は、放課後、日直の仕事を済ませ、本城達より少し遅れて部室に行き、事態が想像以上に悪化している事を肌で感じた。  ドアを開けると、俺の姿を確認した数人の一年生が賑やかに話していたのを急に止め、挨拶もそこそこにバタバタと部室を出て行ってしまった。  一見、何も変わらない光景。  でも、今までは気にも留めなかったのに、ひどくよそよそしく、ぎこちなく感じる。  後輩も、ありもしない俺と監督との仲、疑ってるんだろうか……  タイを緩めかけたままぼんやり考えていると、 「あれ? 吉野、遅いじゃん。お前も当番だったのか?」  俺同様遅れてきた久保に「浮かない顔してどうしたんだ?」  と、いつもと少しも変わらない調子で声を掛けられた。  ほっとして「いや、何でも」と答え、ネクタイを解き、Yシャツのボタンに手をかけたところでまたドアが開いて、今度は三年生が二人入ってきた。  頭を下げた俺と久保を見て、なぜかふいと視線を逸らす。その仕草に本城の話が重なった。  名前は最後まで明かさなかったけど、噂していた三人の内の二人だ、間違いない。  ボタンを外しかけていた指が、知らず止まった。  俺と先輩との間に流れる不穏な空気に、久保が目一杯気まずそうな顔をする。  こいつも噂、知ってたんだ。  もしかしたら先輩から直接、先生との仲を訊かれていたのかもしれない。  そんな事を考えて動けなくなっていると、部内で一番体格がよくて、一年の時何かと声をかけ、からかってきていた白井先輩が、侮蔑の眼差しで俺を見据え、口を開いた。 「どうした? 吉野。監督には裸の身体見せても、俺達には見られたくないってか?」  その一言で、かっと頭に血が上った。  いわれのない侮辱をこうもあからさまに受けて、平然としていられるわけない。  キッと先輩を見返して一歩前に出た時、 「先輩、冗談きつすぎ。こいつそういう手の話、すっげ嫌いなんだから」  一触即発の俺達の間を離すように、へらへらと久保が割り込んできた。 「この前なんか『乱れた姿一度見たい』って言っただけで思いっきり睨まれて、マジ恐かったよな」  そう言って俺を振り返る瞳が「(こら)えろ!」と、必死に訴えていて……固く握った拳を、解くしかなかった。    悔しい! 悔しくて悔しくて、部室を飛び出して行きたい!   けど、ここで逃げたら先輩の言い掛りを認める事になりそうで……残りのボタンを手早く外し、シャツを乱暴に脱ぎ捨てて、ロッカーに叩きつけるように投げ入れた。  唖然とする先輩や久保に目も暮れず上着を引っ張り出すと、上からバサッと羽織って袖を通す。  続けてズボンのベルトを外し、ファスナーを下ろしかけて――わざと顔を上げた。 「いつまで見てるんですか。監督より先輩の方がよっぽど怪しいですよ」  冷ややかな眼差しで冷然と言い放っておいてズボンを脱いだ。  俺って、こんなに大胆だったか?   自分の行動が信じられない。  だけど今は羞恥より怒りの方が強くて、当て付けるような真似を止められない。  いつもなら、ふざけて笑わせて誤魔化すだろう久保にも、もうそんな余裕はなく、俺と先輩の間でおろおろと視線を泳がせていた。  ――俺のせいだ。  部の雰囲気がここまで険悪になったのも、やっぱり俺のせいなのか?   俺一人の……  わからない、何でこんな事になるんだ?   だってたった一ヵ月前、あんなにまとまって、皆いい感じにやる気になっていたのに。  袴を身に着けてロッカーを閉め、着替え始めた先輩達を振り返って、堪らず声を掛けた。 「――先輩、…俺、そんなに好き勝手してるように見えますか?」  怒りで一杯だったはずの胸の中が、いつの間にか哀しくて、締め付けられるような苦しさに変わっていた。 「……その顔が曲者なんだっての」  返してきたのは、やっぱり白井先輩だった。「監督はそれで落とせたかもしれないけどな、男相手にどんな手を使ったって無駄なんだよ。そういう所がムカつくんだ」  俺に構っていた時の明るく気さくな雰囲気は、微塵も感じられない。  俺が普通に話せる、唯一の先輩だったのに。 「いい様に取り入って、自分一人相手してもらって強くなったらそれでいいのかよ! 何が主将候補だ、お前みたいな奴が次期主将だなんて、俺は絶対認めないからな!」  激情を吐露した先輩の、(なま)の声が……偽りのない本音が、胸に突き刺さった。  本城の言う通り確かに嫉妬かもしれない、だけど当然の言い分だ。  これまで監督の時間の八割が俺の為に使われていたのは、周知の事実だ。  頭に上っていた血はとっくに引き、夢中で駆け抜けてきたこの一ヶ月が……先生との掛り稽古が自分の罪に変わるのを、苦い思いで感じ取っていた。 「――そう…ですね。俺も自分が主将に向いているとは……到底思えません。相模先輩に考え直すように伝えて下さい」 「吉野! お前…何言って――」 「でも、俺の剣道に対する想いを、勝手な憶測で穢されたくありません」  慌てて止めに入る久保を遮り、今の自分の精一杯の気持ちだけは先輩に告げた。 「こんな気分を味わう為に、俺は竹刀を手にしてきたんじゃない。十二年、俺を支え続けてくれた、たった一つの大切な生きがいなんです」  剣道に出会わなかったら、今の俺はなかった。  以前じいさんが北斗に言い、俺も何度となく感じた、剣道に対する真摯な想い。  だけど……それすら聞き入れてはもらえなかった。 「そんなのお前だけじゃないだろ。みんな年数は違っても必死に頑張って、少しでも強くなりたくて厳しい練習に耐えてるんだ。生半可な気持ちでやってる奴は一人もいやしない。一番いい思いしてるお前にそんなえらそうな事言われてたまるか!」 「白井、言いすぎだぞ。何ムキになってんだ?」  見かねたもう一人の三年―原田先輩が止めに入ったけど、俺はもう白井先輩に言い返す気なんて更々ない。  ぺこりと頭を下げ、足早に部室を出ていった。    楽しみだった稽古も、今はただ苦痛でしかなかった。  でも逃げ出したりしない。他人と関わる事を怖れないと誓ったんだ。  だけど……どうして上手くいかないのか、わからない。  北斗はみんなに慕われて、先輩からのきつい言葉も北斗の為で……  なのに俺に向けられた白井先輩の台詞の中に、そんな気持ち見出せなかった。  ただ、怒りをぶつけられただけ。  北斗と俺の一体何が、こんなに先輩の態度に差を付けてしまうんだ?  
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