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「――五才の時、初めて竹刀を手にした吉野は、祖父に勧められ隣町の道場に通い始めた。小学五年の頃にはその辺りで誰も並ぶ者がないくらいの腕になっていて、道場の先生も吉野を頼りにし、同年代の子の指導も任せた」
後輩の間でどよめきが起きる。でも俺は、先生がどこまで知っているのか不安だった。
「……だが、たかが小学生では、教える方に技量があっても、聞く側にそれを受け入れる度量が不足していた。道場では神妙に吉野のアドバイスを聞くふりをして、一歩外に出ると生意気な奴という目でこいつを見て……まあ、仕返しをされたわけだ」
「先生……もう――」
消え入りそうな声で呼びかけて「止めて欲しい」と願ったけど……先生は次々に昔の俺を暴いてしまう。
「それくらいで済めばよかったが、その内、道場の中でも孤立するようになり、小学校卒業と同時に吉野はそこを辞めた。技術だけを重視して心を軽んじた道場の先生は、今もその事を深く悔いておられたよ、吉野」
「……宮脇先生とも…話したんですか」
「ああ。吉野の才能と、素直でひたむきな性格が、先生にはかけがえのないものに思えたそうだ。他の子にも見習って欲しい、その為に吉野を利用したようなものだ、と」
「利用されたなんて……思ってません。俺の力不足です。皆を納得させるものも持ってなかったのに……おこがましくも人に教えようなんて、自惚れていたんです」
どうしてここで、皆の前でそんな事を言わなければならないのか、それが一番辛い。
できるなら知られたくなかった。小学生の頃の、自分の腕を過信して驕っていた自分。
そんなつもり全然なかったのに、喧嘩をふっかけられる度、浴びせられた罵声は、今でも忘れる事なんかできない。
田舎の同級生……雅也や和彦、孝史達が庇ってくれ、友達同士の結束はすごく強くなったけど、人に教える難しさと恐さを体験した俺は、あれ以来、他人の剣技に口を出す事ができなくなり、それからは自分の技術を高める事だけに専念してきた。
だけど、その事で後悔なんか少しもしていない。
「中学の先生…高橋先生もお前の事は気にかけてらしたぞ。『私はそれについてどうしてやる事もできなかった。キャプテンをさせてはみたが、対戦でしか後輩の指導はしなかった』と。『副の子がきっちり教えてくれたんで、後輩も納得して、瑞希からは実際に打ち合って学ぶ方法を身につけて、結果的にはよかったかもしれないが、彼はそんなところで立ち止まるような器じゃない』、とな」
「……そう…ですか」
「ああ。それにこうも言っておられた。『過去の経験から、他人に教える事で自分と距離を置かれるかもしれないという不安が絶えず付きまとってしまうんでしょう。あの子にとってそれは、耐え難い恐怖なんだと思います』と」
高橋先生、そんな風に見ていたのか。
色々と、次々と悩ませてしまったんだ。
今度帰ったら、会って謝った方がいいのかな?
そんな間の抜けた事に気を取られていた俺の耳に、監督のとんでもない言葉が飛び込んできた。
「――『四才で突然両親を亡くして、立ち直る為に剣道を始めた瑞希には――』」
「先生!! だめっ……」
正座していた腰が浮き、悲鳴に近い声が口を衝いて出た。
それに呼応するようにその場が騒然となり、隣同士で訊き合い、監督の言葉を確かめあう部員の中、
「吉野、両親……亡くなってるなんて一言も……」
相模主将が呆然と俺を見つめた。そして――
「ああ、わかった、早く帰る理由。一人暮しだからか、…学費の為のバイトでもしてるのか?」
労わるように掛けられた声と核心を突いた問いで、隠し通せない事を悟り、力なくその場に座り込んでしまった。
―――ごめん、北斗。
こんな形で、これ程早く知られてしまうなんて………
……も、駄目かもしれない。
皆に全部知られたら……北斗との生活も、もう―――
「なっ!? どうした吉野! なに泣いてんだ?」
いつもの冷静沈着な主将に似つかわしくない大声のせいで、視線が俺に集中したけど、溢れる涙を拭う気にもならず、紺色の袴の膝にもっと濃い染みが滲んでいくのを、潤んだ視界でひたすら見つめていた。
「――おい、俺……何かしたか? 覚えないぞ……」
途方に暮れた声で相模主将が仲間に涙の訳を問うけど、誰も正しい答えなんか返せるはずない。
また一人に戻るのが、こんなに辛いなんて……
違う、北斗と一緒にいられなくなるのが、堪らなく悲しい………。
俯いて、零れる涙もそのままに泣き続けていると、横からそっとタオルが差し出された。
細い、しなやかな腕。本城だ。
黙って受け取り涙を拭くうち、急に恥ずかしさが込み上げてきて、益々顔が上げれなくなり、もう誰の顔もまともに見る事ができなくなった。
そんな俺を庇うようなタイミングで、千藤先生が部員みんなに静かに語りかけた。
「吉野が、これまでどれ程自己を律して精進してきたか、ここにいる奴は皆知っているはずだ。白井も、俺との仲は認められなくても、それについては認めるだろう?」
「…………」
白井先輩からの応えはない。
……いよいよ軽蔑された。
泣くつもりなんか無かったのに、涙を武器にしたようなものだ。
女ならともかく……ほんと最低。
これ以上みっともない姿、晒したくない。
「本城、ありがと、……ごめんな」
小さく言い、借りたタオルを握り締め、姿勢を正して正面に座る監督を真っ直ぐに見た。
「取り乱して…すみませんでした。……自分のプライベートについて、今までもこれからも、一切言うつもりありません。誰がどんな誤解しても構わない。ただ、皆に嫌な思いをさせていた事については謝ります。申し訳ありませんでした」
そう言って深く頭を下げた。「――だけど俺、良心に恥じる生き方はしてないし、自分だけ強くなればいいと思ってるわけでもありません」
「――なら…さっき訊いた、早く帰宅する理由についても、否定も肯定もしないということだな?」
主将が、多分最後の……俺の口から疑いを晴らす為の手を差し伸べてくれるけど、その手を取ることはできない。
ただ「はい」、とだけ返事を返した。
「……見かけによらず…いや、見かけ通りか……クールというか頑固な奴だな。吉野がそんなにつっぱるところ、初めて見た」
相模先輩がクスッと笑った。
俺の方が初めて見た、この人のこんな優しい眼差し。
……どうしてだ? 腹を立てて当然なのに。
いぶかしむ俺から、視線を他の部員に移した主将が、思いもしない結論を口にした。
「今回の一連の騒ぎについて、当事者の話で皆納得して、誤解も解けたよな?」
一通り見回し、それぞれが頷くのを確認して、先生に頭を下げた。
「誤解とはいえ、監督や吉野に不快な思いをさせて申し訳ありませんでした。白井達には後で厳しく注意しておきます。監督、それでいいですか?」
「ああ。まあ男ばっかの部だからな、ストレスも溜まるだろ。俺も経験あるからよくわかるぞ。男子校だったからな」
カラカラと明るく笑った監督が、砕けた口調で話しかけた。「お前ら共学でよかったな。もし男子校だったら、ほんとに道を踏み外しかねないだろ?」
年齢を忘れさせる表情でのふざけた問いに、久保がすかさず、
「いや、共学でも十分やばいっす」
と答え、俺と白井先輩達以外の皆が一斉に笑い出した。
けど、……わからない。何がそんなに可笑しいんだ?
さっきまでの険悪な雰囲気との差についていけず、一人呆然としていると、相模先輩が苦笑しながら告げた。
「大丈夫だ、吉野。誰もお前の両親の事もバイトも言いふらしたりしない、一人暮らしもな。吉野がそんなに頑なに拒絶するのには、何か訳があるんだろ? だけど俺達には言えない。なら言わなくていいし、もう訊かない。詮索もしない。その代わり稽古していて欠点に気付いたら教えて欲しい」
「え、……」
「皆、お前の助言や指導を待ってるんだ。弱い所を指摘されて仕返ししたり、離れていくようなガキは一人もいない。そうだな、みんな」
一人一人に目を遣る主将につられ、初めて自分から他の部員を見た。
「お願いします」
「それを楽しみに入部したんです」
一年生が期待に満ちた瞳で俺を見返し、三年の先輩までが、
「吉野の助言なら素直に聞ける」
「そうそう、遠慮せずびしびし頼む。俺も吉野に習ってもっと強くなりたいからな」
そう言って、笑いかけてきた。
「……何で……そんな事、……だって俺なんて――」
何の力もない―――。
「おいおい、『俺なんて』なんて言うなよ。吉野がそんな事言ったら、他の奴ら全員最低になってしまうだろ」
相模主将が、縮こまってしまった弱気な俺の不安を取り除こうとしてくれる。
「少しずつでいい。声を掛けてくれ、吉野。お前を傷付けたのが昔の剣道仲間なら、今度は俺達がその傷治してやる」
真っ直ぐに見つめて言い切った、思いがけない言葉に戸惑って主将を見返すと、
「中にはな、監督に夢中になってる吉野に腹立てて、逆切れする馬鹿もいるけど、ここにいる皆、それくらいお前のことが大好きなんだ」
そう言って微笑った先輩は、やっぱり今までとはどことなく違っていた。
主将だけじゃない、部全体が変わった気がした。
暖かい光に包まれたような……安心感、みたいなものが身体中に満ちてくるのを感じ、困惑していると、
「わかるか、吉野」
監督が満足げな表情で呼びかけた。「お互いに信頼しあう事の意味。全て明らかにして、隠し事のない関係もあるが、秘密は持ったままでも、相手を思いやって信じる事ができたら、それが信頼に繋がるんだ」
部員を見渡して「吉野に限った事ではないがな」、と続ける。
「剣道の基本は個人競技だが、だからといってチームワークが不要、というわけじゃない。相模はみんなの気持ちを代弁した。『お前の心の傷を治したい』と。その先は吉野の番だ。勇気を出して皆を信じろ。そしてもっと高みへ引っ張り上げてやれ。こいつらなら必ず受け止めてくれるし、吉野に応えるだろう」
そう断言されたけど、俺にはこの成り行きが理解できない。
……どうして? いつの間にこんなに和やかになったんだ?
責められていたはずなのに……何一つ真実を明かしていないのに、それでも許してくれるのか?
戸惑いつつ皆に視線を移して、大きく頷いた本城と新見、それに誰よりも久保が笑いかけてくれたのにほっとして、ためらいながらも言葉を紡いだ。
「―――今、すぐには……何も。でも、ありがとうございます。俺の為にそんな風に言って下さって。剣道部に入った事、後悔するところだったけど、なんだか初心に戻った気がします。……監督や主将のおかげですね」
そう答えて、自然に微笑む事ができた。
「ん、よし、いい顔だ。よかったな吉野。まあすぐに克服できるような事でもない。皆もちょっと気長に待ってやってくれ。それと、試験明けから他校との練習試合も組んだから、今まで以上に稽古も厳しくなるぞ。試験が終ったからと気を緩めるなよ。十日後、新たな気持ちでここに来るように、いいな」
それを合図にミーティングが終了し、それぞれ解散していった。
雑巾を取りに用具室に行く一年生と戸締りをする俺達の間で、言葉が交わされる事はなかったけど、部活が始まる前に顔を合わせた時のぎこちなさは、もう感じなかった。
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