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その日の夜、部内での問題が解決した俺は、久しぶりに北斗の部屋を訪ねた。
どうしてだかわからないけど、北斗が俺の部屋に入った事はまだ一度もない。
用がある時はダイニングかリビングで声を掛けるか、出窓越しに手招きで呼ぶ程度だ。
ふざけているのか、たまにメールで呼びつける事もある。
一度だけ「俺は北斗の秘書じゃない!」と怒ったら「いいな、それ」と乗り気にさせてしまい、それからはうかつな事、言えなくなった。
なんせ北斗の自筆嫌いは筋金入りだ。「料理教える代わりに代筆してくれ」なんて事、言い出しかねない。
それはともかく、連休明けから野球部の早朝練習が始まり、朝顔を合わせなくなると、家で会うかどうかはいよいよお互いの意思だけが頼りだった。
でも……本城に呼び出された日の夜、北斗に相談しようと思っていた俺は、ドアを叩きかけた手を止め、そのまま部屋に引き返した。
ただの噂とはいえ、千藤先生との仲を疑われているなんて事、部外者の北斗の耳にわざわざ入れたくない、そう考え直したからだ。
一旦ためらうと益々顔を合わせにくくなり、結局、今日のミーティングで問題が片付くまで、北斗の元へは一度も行けないでいた。
「北斗、入っていい?」
ノックして部屋を覘くと、少しだけ意外そうな目を向けて「どうぞ」と応えた。
いつものようにベッドに腰を下ろし、後姿を見つめてどう切り出そうか迷っていると、
「ここに来るの、久しぶりだな」
ノートにペンを走らせながら、北斗が先に口を開いた。
「四日来なかっただけだよ」
朝練が始まって遠慮した、月曜の夜から数えて答えたら、
「二日と空けず来てた気がするけど?」
クスクス笑って返してくる。
間が空いたせいか今までと微妙に違う空気に、何となく居心地の悪さを感じていた俺は、北斗が笑ったのを見て少し安心した。
「ん……部内でちょっと揉め事が起きて……今日やっと解決したから、なんか胸のつかえが取れてすっきりしたんだ」
「――千藤先生との誤解……解けたのか」
その瞬間、他の誰に言われた時より激しい羞恥に襲われ、全身がかっと熱くなった。
「北斗……知って――?」
ノートに視線を落としたまま「ああ」、と答える。
「いつ……から?」
尋ねる声が震えた。
「……連休前から噂は聞いてた。エスカレートしたのは休み明けだな」
その返事に、目の前がすっと暗くなった気がした。
「剣道部以外にも……広がってたんだ」
「ただの噂だ」
「――どんな? 俺が…媚を売って……抱かれる見返りに稽古の相手してもらってるって?」
「…………」
黙ったままペンを動かし、俺を見ようとしない北斗に、噂の内容を確信してTシャツの胸元をギュッと握り締めた。
胸が詰まって、…苦しくて……いつかこれと同じ気分を味わったのを思い出した。
あれは……孝史に裸の身体を全て見られて、触られたと思った時―――。
あの時は不可抗力だったし、何より孝史が俺をからかっただけだった。でも今は………
俺を見ようとしない北斗の態度に、深い絶望が押し寄せてきた。
いたたまれずドアに駆け寄りノブに手をかけ出て行くより早く、肩を掴まれ背後から羽交い絞めにされた。
勢いのままバン、と大きな音を立ててはね返ったドアが、眼前でカチッと静かに閉じる。
―――一瞬の出来事に、腕の中で硬直してしまった。
試合でも経験した事ないくらい、心臓がドクドクと異常に早く脈打っている。
半年一緒に暮らして、穏やかで受動的だと思い込んでいた北斗の気質の中に、隠された野性を強く感じて怯えたからだ。
「どこ行くんだ?」
「――部屋へ……帰るだけだ」
「行かせない」
耳元で告げられた、俺を縛る低い囁きに、何故か胸が痛いくらい熱く痺れた。
「何ですぐ来なかった」
「え?」
「火曜日、……本城とサークルで話した日の夜、待ってたんだ」
「……見てたのか」
「移動教室で向かいのサークルから見かけた」
「来たよ。このドアの前まで、でも……入れなかった」
「どうしてだ?」
静かに問いかける口調は、逃げる事も嘘を吐く事も許さない。
責められているわけじゃないのに、唇がわなないた。
「――だって……言えるわけない。監督との仲を疑われてるなんて、……この俺が! 自分から……身体をッ――――」
続く叫びは、北斗の手で塞がれた。
俺の動きを封じていた腕が、優しい抱擁に変わる。
「いい。試すような事して悪かった。瑞希が、噂が広まるのと同時に急に来なくなるから……噂ならいい、だけどもし本当に惹かれているなら……」
「!? バカな事言うなよ!」
思いもしない事を言い出す北斗を、強引に振り返って遮った。
こいつの口からそんな、先生との仲を認めるような事、聞きたくない。
「何で俺が男に本気になるんだ! 女相手にだってどうしていいかわからないのに……」
「そんな理屈じゃない。本気になったら……自分でも止められない」
抱きしめる腕に力がこもる。
心まで同じ強さで締め付けられたようで、苦しかった。
「――離して、北斗」
身じろいで腕から逃れようとする俺に「……嫌だ」と、額を摺り寄せてくる。
こんなに不安気な仕草をする北斗、初めて見た気がする。
「もう出ていかない。今夜はミーティングの事を話したくて来たんだから」
「絶対……逃げ出さないか?」
耳元で確かめる声が今までに聞いた事ないくらい頼りなげで……思わず強く言い切っていた。
「何で俺がお前から逃げるんだよ」
「……たった今、逃げ出そうとした」
――もう、こいつは!
「それは! ……見られたくなかっただけだ」
北斗の不安を消し去ってやりたくて言ったのに、返ってきた台詞は俺の揚げ足をしっかり取っていて、絶望しかけた事も忘れさせてしまう。
「……北斗が噂を知ってるなんて思ってなかったから、…たとえ噂でも……穢された気がして、それで―――」
最後まで言えなくて言葉尻を濁した俺を、北斗がもう一度強く抱きしめた。
「馬鹿……。瑞希が清廉なのは俺が一番よく知ってる。誰もお前を本気で傷付けたりできない事もだ」
そう答えて、やっと俺を解放してくれた。
「ちょっと待ってろ、宿題先に片付けるから。――寝るんじゃないぞ!」
しっかり釘をさされたけど、その台詞は聞き慣れたもので、いつもの北斗に戻ったと実感できて、部屋に入った時と同じ後姿を見つめながら、一人密かに安堵していた。
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