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築二十年を超えた安アパートの壁は薄い。隣室から届く掃除機の音は、一週間前まで慎吾を大いに苦しめていた。特に深夜勤務の週なんかは最悪で、帰宅し、シャワーで一日の汗を流した後、布団に入り、ウトウトし始めた頃にその音が聞こえ始める。時刻は午前七時を回った頃であるため、あちらが非常識な行動をとっているわけではない事は慎吾も承知していたが、それでも待ち望んだ休息を阻害され、同日の夜に控える勤務までの貴重な時間を浪費されられるとなれば、玄関まで押し掛けて、その扉をドンドンと叩いてやりたいという気持ちにもなった。
それがまるで逆転、この日も深夜勤務を終え、小鳥の声を鬱陶しく思いながら床に就いたところであったが、壁の向こうからギュュンと聞こえだしたその音に、彼は目を閉じたまま、穏やかな笑みを浮かべるのだった。
隣の部屋も自分の暮らすこの部屋と同じ作り、つまり六畳のワンルームであるはずだから、掃除機の音の距離で、何となく部屋のどの辺りを掃除しているかを推測する事ができる。例えばフローリングの床とそこに敷かれたカーペットを吸う音の違い、床のごみ箱を退かす音、ベッドの足へ掃除機の頭をぶつける音、そんな事から、彼女の生活ぶりを想像する事ができる。ただ一度その姿を見ただけでこうも考えを変える自分の単純さに当惑されられながら、懸命に掃除機をかける彼女の姿の幻想に、慎吾は心を寄せずにはいられないのだった。
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