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「なのに辞められないンだから業腹だ」
「…そうですね」
ふたり、干したぐい呑みの底をしみじみと見詰める。
いつも飢えてる。
当に、死に至る病のように。それでも。
「どうしようもなくなったときはねェ、思い出すんです」
あの日、饅頭こわいを聞いてくれたあの人の顔、と。
そう言って師匠はクスリと笑った。その記憶は色褪せず、今もまだ飴色の活動写真のように。菊助師匠の横顔は初夏の木漏れ日のように眩くて、楓は目を細めた。
これが、この人の強さだ。
圧倒的な孤独を抱えて、それでもなお。
それから、考える。自分にもあったろうか、そんな奇跡のような瞬間が、どこかに。
「あっ」
あった。
楓は思わず息を呑む。
届いたことがあった。
きっと、解ってくれた。
あの高揚、興奮。
知ることと、体験することの喜びを。
「…どうされましたか?」
「や、いえ、なんでも」
心配そうな顔の師匠に手を振って、楓は笑って徳利を取り上げた。酒を注ぎながら思い出す、あの、瞬間を。
夕暮れの、姫路駅
息が止まるほどの風圧と 震えるような地響き
少年のように目を輝かせた 彼と、
自分は、確かに あのとき
孤独ではないと
いっしょに、世界が輝く瞬間を、
確かに
たしかに
絶対に、忘れないようにしよう、と。
楓はそう心に決めた。
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