恋歌ロンリネス

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 目的地近くの駐車場に車を止めた瞬間、楓は心底ほっとした。  運転は苦手ではないが、ただでさえ一通が多い上、道が古くて細くて文化財に行き逢ったりで、京都市街地の運転は難度が高い。潔くタクシーを使うべきだったと二度目の後悔をしながら、そんな様子は見せずに芝田氏を伴い、件の履物屋に辿り着く。  楓が暖簾を潜ると、 「いらっしゃい」  と、店主と女将か、年配の男女が同時にこちらに顔を向け、愛想良く微笑んだ。待ち構えられていたようだ。 「ごめんください、赤谷さんのご紹介で参りました」  そうして後ろの芝田氏を振り返りつつ、「こちらの草履の修理を…」と切り出したところで、 「師匠…!」 「あらまあ」  えっ? と今度は楓が戸惑う番だった。  ししょう? そういえばその単語はさっきも聞いたな… と思っている間に、女将はぱきぱきと手際よく座布団をしつらえ、芝田氏を案内するとすぐに茶が出て来た。店主は楓から草履を受け取ると、はあはあ、なるほどと頷いている。 「これは鼻緒をすげ替えないといけませんねェ。底も貼り替えた方が…」 「ああ、もの自体が古いんです。随分と昔に誂えて頂いたもので… あんまり勿体ないもんですから、なかなか出せなくって」 「それはそれは。大事にお使いになってらした」 「それじゃ、すげ替えるにしてもお使いになりたい布もおりありでしょう」 「ほんなら、こちらでは応急処置をさせて頂いて、お戻りになってから改めてお直しになったほうがよろしいおすな」 「そうですねえ、そうしましょうか」  楓の鼻先で勝手に話が進んでいく。いやそれはいいのだが、むしろ辞去するタイミングを逸したようで、少々身の置き所がない。方針がまとまったところで、店主は草履を手に店の奥へと引っ込んでしまった。  楓はとりあえず出された茶をすすり、口を挟む隙を伺っていると、 「こちらはお弟子さんでいらっしゃいます? イケメンさんやわあ」  まさに興味津々という眼差しの女将に、少々身を引く。『お弟子』という呼称に、さすがに楓もいくらか閃くものがあった。 「いえいえ、こちらはこんな半端な商売じゃございませんよ、K大の先生でいらっしゃいます」 「あら、K大の… せんせい…」 「は、ええ、物理をやっています」 「物理…?」  ちなみに名乗って響く打率は五割を切るのが常なので、楓は普段はあまり使わない名刺を取り出し、芝田氏と女将に渡す。しげしげと名刺を眺めながら、女将はははあと嘆息し、芝田氏は「好いお名前ですねェ」と幽かに笑んだ。  そこでようやく、楓は「失礼ですが、芝田さんは…」と、老紳士の正体を質す機会を得た。 「林家菊助師匠です。明日からの独演会にお出にならはる」  女将が視線を向けた先、店の奥の壁に落語家林家菊助・独演会のポスターがあった。確かに芝田氏が品良く座っている写真付きだ。予想は付いていたとはいえ、物知らずで申し訳ないと楓が頭を下げると、芝田氏は慌てて「噺家なんぞに頭を下げちゃァいけません」と止めた。
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