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落語、といえばテレビの『笑点』(しかも大喜利)ぐらいしか思い出せない。
楓の実家はインテリ一家だが、あいにく全員理系で、寿限無をはじめ幾つかの話の要素を教養として把握している程度だ。しばらく前に落語家を主人公にした朝ドラや連ドラがあったり、最近では漫画や小説もあった気がするが、いずれにせよ楓にとってはフィクションの領域だった。現代版江戸っ子とはいえ、上野や浅草の演芸場とも無縁だ。
通常の寄席では漫談や音曲、紙切りなどの芸も披露され、落語も前座から二つ目、真打までレベルの違う噺家が高座に上がる。今回は師匠の独演会で、いわゆる寄席とは違うが、いずれ全部が初体験の楓にとっては一から十まで物珍しかった。
独演会会場の入り口を入ると、履物屋の女将と店主が居て、女将が愛想良くこちらに手を振っていた。
「先生、ほんまにありがとうございます」
なんでも、本当に師匠は新しい草履を誂えてくれるそうだ。「お揃いの帯も、赤谷社長のところでお願いしてくれはるそうですえ」と言われると、言い出しっぺとはいえ恐縮するばかりである。女将は生来の世話好きなのであろう、楓の処遇についてスタッフに声を掛けてくれている一方で、店主が「そういえば先生」とそろっと声を掛けてきた。
「赤谷社長とお知り合いいうことでしたけど… 末っ子の坊ちゃんの?」
「ああ、はい、友人、です」
殆ど小姑のようなものだが友人には違いない、と、口に出さずに付け足していると、店主は「やっぱり」と顔をほころばせる。
「去年はあれでしたでしょ。復帰はいつ頃やろかって、仲間内で噂してましてん」
「ええ、順調なようですから、夏前には戻れるんじゃないかと思いますが」
「そら楽しみですねえ」
大家の同僚、赤谷祐輔は去年、膝の手術をしていた。怪我がつきものの商売だけに珍しい事ではないが、もちろん生命線だ。ただ昨日の様子からしても、経過はだいぶ良いのではないかと楓は予想している。
ちなみに御曹司も相当に愉快な来歴だ。元は呉服屋の赤谷の実家だがこのご時世、今はほぼ紳士服メーカである。上に姉が三人おり、遅く生まれた長男を両親が心配して体力作りにと始めた野球だったが、うっかりそちらで才能が認められてしまった。結局、姉達が婿養子をとって家業を継いだという話だ。まあ本人も広告塔兼モデルとして貢献しているようだが。
なお細々と呉服の商いを続けるほか、最近では特殊繊維を使用したスポーツウェアにも挑戦中だとかで、いずれは球団公式ユニフォームを手がけるのが目標だそうだ。野心的である。
そうこうするうち、会の開始が近付いたようだ。昨日もすれ違ったお弟子に挨拶され、楓も会場内に足を向けた。
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