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中学生
中学校に上がった僕は、サッカーを辞めた。小学生の時点で辞めたかったので、当然の流れではあった。
中学校では全員何かしらのクラブに所属する決まりになっているのだが、特に所属したいクラブが無かった僕は、熱心に勧誘された柔道部へ入部する事になる。先輩達は「身長は関係ない」とか「小さいけど強い人がいる」と言っていたが、頭数が欲しかっただけなのだと思う。僕は小さいにも程があり、とても人を引っ張ったり転がしたりできる腕力も無かった。この先背が伸びる期待が持てない事も、両親の姿を見ればわかった。
この頃初めて知ったのだが、僕の祖父の叔父(これをどう呼ぶのか知らないが)が県の柔道協会の何かを務めている人だったらしく、会えば一方的に柔道理論を説かれたりした。
柔道部では先輩方や先生から可愛がられ、サッカーのように人に詰られる事もなかった。しかし絶望的に弱く、試合に出ても瞬殺、それに練習は厳しいために日に日に心労が募り、同級生が辞めると言ったタイミングで、一緒に辞めた。一年生の冬頃だったと思う。
柔道で得たものは、受け身の取り方と、道着が擦れてできた背中のアザだけだ。
柔道部を辞めたが、何かクラブに所属しなければならない決まり事がある。僕が次の所属先に選んだのは、どういう経緯かは忘れたが、剣道部だった。
ここも練習は厳しいものだったが、向いていたのか試合にぼちぼち勝てた。剣道は身長も体重も関係ないし、元々すばしっこさと反射神経が取り柄だったので、その為だと思う。相手の懐に潜り込んで「胴」を決めた時の快感は、何物にも代えられなかった。あと、サッカーのような一人のミスで他人が迷惑を被る団体競技より、自分のミスの代償は全て自分で引き受ける、個人競技が性に合っているのだろう。柔道も、勝てなかったが気は楽であった。
しかしここでは、僕の事を目の敵にする人がいた。時たま教えにやってくる、部外のコーチだ。
練習中派手に転ばされたりするのだが、励ます一言もなくただただ転ばされ、他の子にそのような事はしないし、部内に他のコーチの子がいたが、彼とは談笑したり個人指導したりしていた。どうやら僕は、このタイプの、力がある者に媚びへつらうタイプの人間の癇に触る、何かを持っていたのだと思う。
こんな扱いを受けたけど、卒業する時にはさすがに何か言ってくれるだろうと思っていたが、労いの言葉をかけられる事ははなかった。どうやら真剣に嫌われていたらしい。大の男が、中学生相手になんなんだ。未だに腑に落ちない。
クラスにも一人だけ、僕の事をイジメる子がいた。一人だけである。名は裕二という。サッカースクールで一緒だった一男とは、ずっと違うクラスだったのであまり接点がなかった。
裕二も一男や剣道のコーチと同じ傾向がある人間だった。クラスの人気者に取り入ろうと見え見えなお世辞を言ったり、先生の前でわざとおちゃらけて、わざと叱られたりしていた。
仮説だが、彼らは僕に、大樹に寄り添おうとする思惑を見透かされている事を気付いて、それを快く思わなかったのだと思う。あんな見え見えの振る舞いでそれに気づかないわけはないが、それに気づかないフリをする、もしくは気づいてもどうでも良いと思う人が多いのかもしれない。ただ僕は彼らのような人が当時も今も滑稽だなと思うし、軽蔑するし、その思いを彼らは感じて取れたのだろう。
裕二に僕の物を奪われたり、手加減のない暴力を振るわれた事もそうだが、裕二のような底の浅い人間の底の浅い振る舞いを、同じ室内で目にし続けなければならない事の方が苦痛だった。
裕二が同じ高校を受験すると知った時は、まだ逃れられないのかと愕然としたが、裕二は落ちた。別に定員が割れてるのか割れてないのかわからない程度の農業高校の受験に、裕二は落ちたのだ。なんでお前が受かって俺が落ちるんだという意味の事を散々言われたが、この時ほど痛快な出来事は生まれてこの方なかった。それまで勢いのあった者が辛酸を舐めるというシチュエーションは現在でも好物だが、この下品なフェチズムに目覚めたのはこの時に間違いない。
中学時代においても僕の精神的な成長は、歪んだ方向に伸びていったのだ。これでは一男や裕二や剣道のコーチと同じようなものなのかもしれないが、それに気づいているだけ僕の方がまともだ。僕は人間であろうとしている。
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