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その絵には、向日葵が咲き誇っていた。
小学生の頃、授業の一環で向日葵を描いた。それは私なりには上々で、才能を持たない自分には身の上以上に思える傑作だった。夏の美しい風景、と。アバウトな題材で描かれた私の向日葵は、友人からしてみれば大した物ではなかったようで、散々な言われように頬を膨らませたのを覚えている。
そして、夏が終わり。
そして、秋が来た。
教室に張られた向日葵は、確かに友人が言うように大したものでなくなっていった。思い出が更新し、色褪せていくように。その向日葵に対しての想う気分が薄れたのもあって、私の絵心が壊滅的であるという自覚が、それなりに理解できた事も理由に含まれる。
もう一つ。
隣に飾られた、美しい向日葵の群生が大人顔負けの異彩を放っていたのが一番の理由かもしれない。
夏が終わり、習字の文字に埋め尽くされた壁紙の中で、異彩を放つ作品が
変わらず存在していた。其処には子供ながらに情景を簡単に魅せ。そして、胸を熱くする作品があった。
それは誰もが同じで、クラスメイトや下級生にまで知れ渡り、私たちの心に何かを残した。その向日葵の情景は引き付けるような何かがあった。
それさえもだんだんと薄れていき、彼らの心から向日葵の情景が薄れていって、話題にさえならなくなり、その向日葵が、明日を以て外されると担任から聞かされていたある日。
「やぁ。藤代さん」
それを描いた異彩は。
雛元(ひなもと)華(はな)は。
何時ものように、聲を掛けた。
「……」
「一緒に帰ろ?」
「まだいたの?」
「そりゃあね」
秀才であるから変人なのか。
それとも逆なのか。少なくとも、私が心の底から負けたと思った作品を作った雛元は、私の幼馴染、古くからの交友があった。
親の代から親交があり、家も近いために顔を合わせることが多く、帰り道も一緒なために隣にいることが多い。
その日、何時も通りに習慣の様に、何処か心の底から引き付けられる向日葵を眺めていて。私の思い描いた情景に似たその光景は、どこか懐かしさを感じたりしながら、それでも思い出せないもどかしさに誰かに吐き捨てたいと思っていた所に。
私は、変人に捕まる事となった。
「藤代さんも向日葵が好きだったなんてさ。……いやあ、とても面白い向日葵だったね」
「いやみ?」
「いやみなもんか、藤代さん。僕は、面白いものは面白いって言うよ」
何処までもからかい文句にしか聞こえない言葉を聞き流す。それでいてツマライ言葉だけを並べる雛元は、私の意思を組もうともせず、回る舌を繰り返していた。天才とは人の話を聞こうとしないらしい。何処までも自分勝手な知り合いは、下校時間を過ぎるまで飽きることなく言葉を続けた。
「……んじゃ、一緒に帰ろうか?」
終始楽しそうに腕を取る。
私はそれに抵抗する気力も薄れ教室を出た、夕暮れに染まる赤と清々しい冷たい空気にマフラーを欠かせない。元気が取り柄な彼は、秋というのに薄着で奇抜性だけは人一倍だった。
私たちの関係を言えば、そんな関係となる。雛元が描く向日葵に魅せられた私は、雛元が楽しそうに描く作品に心を奪われていた。彼が私に執着している理由は分からなかったけど、それは多分、幼馴染だからという理由に尽きるだろう。
果てしない無口が取り柄な私に、興味がある訳では無かった。
断ることも無く、ズルズルと引き延ばされたその関係は、高校生になった今でも引き継がれていた。
あの頃から変わった事とと言えば。
雛元が少しばかり有名な芸術家となり、世間一般的に天才の名として知れ渡っている事。
そして私は、世間一般的な女子高生としている事。
奇妙な喫茶店に努めている事。
そして毎回のように、あのころから何も変わらない雛元に、客としてコーヒーを入れる事。
下らない話で盛り上がる雛元の話が、悪くないと思えるようになった事。
その中でも一番変わったと言えるのは。
彼の思い付きで、下らない風習が一つ増えた事だ。
私が見せられた向日葵は、今は無い物となった。
雛元の手に戻ったその向日葵は、彼の手によって処分されたらしい。
今になって思い返してみても、彼に直接聞いても。
その理由は、分からずじまいだった。
立夏が始まる。
カラっとする訳でもなく、ただ、爽やかに広がる空。
開花前の紫陽花に水を注ぎながら、ドアに掲げられた札を裏返す。今流行りのタッチで描かれたイラストはこの店の店主オリジナルの手作りのようで、店の到る所に”彼女”は描かれている。
三つ編みの少女。ブロンドの髪が印象的な彼女は、この店主のお気に入りのキャラクターらしい。
多芸多趣味と多彩な才能を実感しているから、スケッチブックを片手にコーヒーを提供していると本人の口から漏れ出れば、納得せざる負えない程器用な人。
私がバイトを勤めるこのお店、”紫陽花”の店主は、そんなマスターだった。
彼は、清爽感漂う鈴の音が聞こえると、こちらに対して片手を上げ挨拶とする。フレンドリーというよりも、何処か消失感を感じさせるような人。何かを無くしたような人は、作業中の手を止め弱弱しい挨拶と共にか細い表情を見せた。
言い換えれば、少し上品気質さえ見せながら、この店を切り盛りする彼。ビルさん。
生粋のアメリカ出身で、この町に移り住んで三十年間、この店を続けているオーナー。そして、私を雇う店長。物腰が低いが、自慢の多彩なる才能はコーヒーを入れる腕にも十分に生かされていて、街の中心街である程度著名な程、彼の腕は確かだと広まっている。
お気に入りのコーヒー豆を良心的な価格で店内で販売もしており、そのコーヒー豆を日常の一品として買いに来る客が大半だ。
「藤代さん、丁度よかった。手紙が届いていますよ?」
「シュレッダーにかけといて下さい」
「……さすがに確認をとるべきでは?」
「大抵、内容は分かりますので」
彼に言わせればクールな私は、彼の認識通りに冷たい態度で手紙を受け取った。自分で切り刻むのも手間がかかるとか、処理の方法ばかり思い付きながら。
手紙の主は雛元。どう捨てるのかを考えていた私は、ため息交じりに今日も封を切る。カウンターを通り過ぎ、ロッカーというには小さなスペースで背中を預けた。手紙の他に、描かれた一枚の向日葵が入っている。あの時以上に完成度を誇る向日葵。向日葵が好きだと勘違いしているのか、彼は毎日のように、そんな一枚絵を私宛にと、マスターに預ける。
手紙と勘違いをしているビルさんは、それを確認することも無く私に預かった物と称し渡す。これがいわゆる、雛元の習慣だ。
「……」
紙の束となったそれらを仕舞い、制服に着替えながらスマホを取り出した。
相変わらず長文を送る雛元に、”仕事”と一文乗せる。
既読の文字を確認すると、私は仕事場へと足を勧めた。
定時通りにコーヒー豆を挽いていると、何時もの時間に彼は席に座る。
そうして、くだらない話に至るだろう。
私はそう思い、コーヒーを入れてる時ぐらいは静かにしろと声を出す。
私たちの間で流れた数年の月日は、物静かな私を変えることが無かったように、彼を変えることも無かった。子供っぽい言動は確かに昔のままで、互いに流れたこの月日は、厳密には変わったところがあるのだろう。だけど、それを感じる事は無い。いつまでも同じようなことの繰り返しで、私もその習慣に飽きる事も無く続いている。
だけど、今日は少しばかり違っていた。
「ねえ、藤代さん。ちょっと旅行に行かない?」
雛元は、端的にそう伝える。
驚きのあまり挽いていた手を止め、聞き返した。
「何?」
「だから、旅行。りょこう」
「……いや、聞こえなかったっていう意味じゃなくて。まあ、意味は分からないけど」
「んじゃ、行こう」
「いろいろ待ってほしい」
多々、端折っている部分がある為に。
子供心が主体的な根底は覆ることが無く、その癖味覚だけは一人前で相変わらず不味いと答えた。苦いの間違いだろうと私が頭を叩くと、お客様への態度ではないと生意気な顔を見せる。
その上で、私はお客様は神様ではないと語る。
「違いないね。生産的でない時間を作るのが藤代さんの仕事だ」
全くもって生意気だ。
「何で旅行を?」
「なんとなく?藤代さんだって、旅行をするのに意味を持たないだろ?」
「私が付き合わないといけない理由は?」
「だって藤代さん、バイトしているのに何処にもいかないじゃん。それに退屈していると思ってね。ここらで一つ。新しい風を入れようと。互にだけどね」
そういう訳で、旅行に行こう。……と、雛元は語る訳だが、支離滅裂な言動に唖然としているのが私の心境だ。何故バイトをしているのなら旅行に行かなければならないのか?それ以外に趣味があるとは思えないのか?自分が確かに趣味人で無い事は此奴も知っている通りだ。強いて言えば小説を読んだりはするし、音楽もそれなりに嗜むが、それ以上が無い。
後、コーヒーを入れる事だって趣味と言えば趣味として数えられるか。仕事柄もあり、高校生にしては珈琲を嗜んでいることは認める。
そんな余計な思考さえ含めて、改めて言う事があるとすれば。
「意味が分からない」
これに尽きる。
「ま、泊まる奴でもないから気楽に行こうって」
「泊まる奴だったらお前の神経を疑っていたよ」
「それに、全額僕が出す。って言ったら?」
高校生の稼ぎでは到底買えない作品を作り続けている天才は、確かに言う事が違う。
確かに、特にやりたいことも無かったのも事実だった。変わらない毎日を過ごすのは私としては退屈とは言えないが。……まあ、この機会だ。コーヒーを入れる以外の事があるのなら。
……いや、果たして。
……成程。
常に絵を描くことしか考えず、私との時間さえ習慣の一部でしかない此奴が、旅行か……。
それは、言葉通りの旅行か?
「……そうだな。考えてやらんでもない」
コーヒーカップを拭きながら答える。
「ありがと」
「何がだ?」
「了承してくれなかったら、駄々を捏ねる所だった」
「他のお客様にご迷惑がかからない程度ならしていいよ? お前の価値が下がるだけだから」
冗談ではなく、本当に駄々を捏ねそうだ。
羞恥心という物がこいつにあるかは分からないが、引けなくなった馬鹿が何をするかは経験則で分かっている。
「そりゃ困る」
「そりゃ困るだろ?」
どうやら羞恥心はあるようだった。
この時間は人が押し寄せず、休日だというのに賑やかさが足りない。それを見越しての会話は実に清々しい青春であるだろう。絵師である彼が求める時間というのは、私からしても普通のモノであるのかもしれない。
仕事の邪魔でない程度なら、話に花を咲かせるのも悪くはないとは思うが……。
せめて、何を考えているのかくらい入って欲しいモノだ。
「藤代さん」
「ん?」
「一杯のコーヒーに価値はあるね。向日葵以上に」
「……何?」
「いや、楽しい旅行にしたいって思ってさ」
それは明らかに他の意味を含めた言葉だったけど、私はそれ以上聞くことなく仕事に精を出す。客の話に耳を傾けるのではなく、コーヒーを提供するのが私の仕事であることを理解しているから。
彼との会話もその延長だった。客が話しかけたら応えるだろう。その答えが少しばかり長いだけだ。
それに何を感じるのかは人によりけりで、其処に私が介入する理由は無い。
少なくとも、彼が感じたそれを私が語る事ではない。
「……今日も満足した?」
「満足しない日なんてないさ」
少なくとも、雛元は私以上に人生を謳歌していそうだ。
絵を描く作業に戻る。…と、一言残し会計を済ませ片手を振る。私はそれに反応するかのように、二度と来るなと冗談を口走る。キツイ冗談だと苦笑いする彼の背中に、見えないように振り返した。
紫陽花が似合うこの季節。
変わらない時間は過ぎ去り、いつも通りが定着する。それは雨音が五月蠅くなる季節に確かに似合うだろう。巡り巡る季節で忙しさを増すこの場所では、あり得ないのかもしれないけど。
どんな季節であれ。
どんな日であれ。
この場所で話す日常は。
それは決して、悪い物ではないのだ。
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