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4
翌日、コーヒーを淹れてウォーマーの上に置くと、壱月は家を出た。時間はまだ八時前で、少し早い。それでもまだ楽が怒ってるかもしれないと思うと、顔を合わせる勇気がなかった。そのまま何か墓穴を掘って嫌われたりしたら立ち直れない。ひとまず様子を見よう、と決めた。
学校に着き、ホールの掲示板を眺めているとそこへ駆け寄る足音が響いた。
「壱月」
その声に振り返ると亮平が手を振っている。まだ講義の時間まで三十分以上ある。ほとんど講義の入ってない亮平がこの時間に学校に居るのは珍しかった。
「早いね、亮平」
「いや、昨日は研究室泊まり。で、さっき窓から壱月見つけて」
「そうなんだ、お疲れ様」
壱月が微笑むと、亮平は頷いて壱月の指先を掴む。周りに人が居ないとはいえ、その行動に驚いて亮平を見上げ、口を開く。
「何?」
「いいから、ちょっとこっち」
亮平に引かれ向かったのは教室のひとつだった。まだ講義が始まっていないそこは人も居らず、静かだ。壁際で壱月を抱きしめた亮平はそのまま深くキスをする。
「なっ、に……亮平、離して」
キスの隙間から壱月が訴える。いくら誰も居ないとはいえ、学校のような公共の場でこんなことはしたくなかった。けれど亮平はその訴えを聞いてはくれない。それどころかその両手は壱月の衣服の端から素肌を求めて入り込んでくる。
「すぐ済ますから、いいだろ」
亮平はいつも強引だが、ここまでなのは滅多にない。壱月は亮平を宥めるように背中に腕を廻した。ぎゅっと抱き寄せて、亮平、と呼びかける。
「亮平、なんかあったの?」
問いかけると、亮平の手が止まった。長いため息が壱月の肩口に掛かる。
「……卒論のデータ、全部消えた。研究室の奴らの分も俺が預かってたのに……内定もまたダメだったし」
亮平は壱月に身を預けるようにしながら話した。その話に、壱月の心臓は射抜かれたように痛む。やっぱり自分のせいなのではないか、と思った。
「亮平……」
壱月が何か言葉をかけようと思った時、壱月のカバンからスマホの着信音が響いた。
慌てて取り出すと楽の名前が見えた。それを見た亮平が咄嗟に口を開く。
「出るな。おれと居ろ。なあ、おれのことだけ考えてろよ、壱月」
すっかり弱っている亮平の様子に、壱月は頷いてそのままスマホをカバンに戻した。
楽からの着信を無視したのは初めてだった。心の中で何度もごめんね、と謝る。
「亮平、研究室戻った方がいいんじゃない? 忙しいでしょ、データ消えたとかなら」
「やる気なんか起きるかよ……修復かけるったって明日だよ。今日はもういい」
壱月を抱きしめたまま亮平はため息を吐く。
「じゃあ、帰って休んだ方がよくない? 疲れた顔してるし」
壱月は亮平の顔を見上げて言った。すると、亮平は、そうか? と小さく笑う。
「だったら、壱月も来てよ。抱き枕になって」
「僕は、これから講義あるから……」
「いいだろ、こんな時くらい。慰めてよ」
耳朶にキスをして、亮平が囁くように言う。 それに壱月はうーんと唸って悩んだ。必修が詰まっている今日はあまり休めない。代返もきかない講義もあったはずだ。
けれど今の亮平を放っておくことも出来なかった。もしその不運が自分のせいならば、自分にだって責任はある。亮平が望むのなら、ついていくべきなのかもしれない。
「昼まででもいい? 午後から外せない講義あるから」
「いいよ。その頃には寝ちゃうと思うし」
じゃあ行こう、と亮平は嬉しそうに壱月の手を引いた。壱月は仕方なくそれについていく。ホールまで来ると、さすがに手は離したが、亮平はずっと傍を歩いていた。嫉妬深い恋人は、いつも必要以上に近くを歩く。これが牽制なのだと彼は言うが、壱月は正直恥ずかしいし歩きにくくて嫌だった。
「壱月、先来てたのか?」
亮平との距離に気を取られていると、目の前からそんな声が飛んできた。顔を上げるとそこには楽が立っている。
「楽……うん、ちょっと用があって」
「電話、出なかったから心配した。で、その用って、コイツ?」
楽は切れ長の鋭い目を更に鋭くして亮平を見やった。うんまあ、と壱月は曖昧に返事をする。
「行くよ、壱月」
楽のことをよく思っていない亮平は会話を断とうと壱月の背中をぽん、と叩いた。
「行くって何? 今日必修だろ」
亮平の言葉に驚いた楽は壱月に怪訝な表情を見せる。
「うん、ちょっと、ね……午後には戻るから」
「午後って、午前の二コマはどうすんだよ」
楽が壱月の目を見つめる。壱月はその真っ直ぐな目を見ていられなくて目を伏せた。
「壱月の同居人、だよね? 友達なら代返してやればいいだろ。それ以外は口出すような場面じゃないの、わかるだろ」
亮平は楽を見つめ、居丈高に言い放った。そして、そっと壱月の指を自分のそれに絡める。
「ちょっ、亮平!」
その行動に驚いて壱月は手を引こうとする。けれどしっかりと繋がれたそれは離すことが出来なかった。
「行こう、壱月」
壱月はそのまま亮平に手を引かれホールを後にした。振り返った先に見えた背中がどこか悔しそうに見えたのは、壱月の願望だったのかもしれない。
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