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 小さい頃、熱を出すと母親はずっと傍にいてくれた。髪を撫でたり、頬に触れたり、眠るまで本を読んでくれたりして、普段頭ごなしに小言を並べる母親とは思えないほど優しかった。 「ここにいるから」  そう言って、額に触れる手は温かく、柔らか……だったはずなのに、今日はなんだか冷たくて固い。どうしたの、と聞こうとしても声が出なくて壱月はぱちりと目を開けた。   視界にはいつもの天井が広がっていた。自分のいるここは、自分の部屋のベッドだと気づき、夢を見ていたんだな、と長い息を吐いた。  起き上がり、自分がまだ昨日と同じ服で寝ていたことに驚いて、その状況がしばらく理解できずにいた。徐々に記憶を辿って、どうなったのかを思い出していく。 「ああ、そうだった……」  壱月は楽の冷たい視線を思い出してぽつりと呟いた。  初めからわかっていたことだった。元々、楽は自由な性格で、ルールが嫌いで、遊び好きだ。そんな彼が、自分との約束を守るなんて保障はなかったのだ。今までの方が、楽にとっては異常で、苦痛そのものだったのだ。 「楽……」  その名を口にすると、涙が溢れた。たまらなく好きで、たまらなく憎らしい笑顔を思い出すと、壱月の涙は次から次へと流れていく。  壱月はしばらくの間、声を殺して泣き続けた。  泣いて疲れてまた眠って、次に壱月が起きたのは、スマホの着信音のせいだった。 「もしもし……」 『壱月? 今、学校に居る?』  相手は亮平だった。楽からではないことに少しがっかりしながらも当たり前だよな、と思い直し亮平に、ううん、と否定の言葉を返した。 『そっか。なんか、元気ないけど風邪か?』 「平気……それより、どうかした?」  壱月はベッドから起き上がり、聞いた。まだ頭が重かった。 『いや、おれ、また明日から就活で地方行くからって、言おうと思って』 「そうなんだ……でも、僕今日は会えないかも」  鏡を見なくても、瞼が腫れているだろうことは予想できた。それに今日は亮平と会って何かする気分ではない。 『いや、いいよ。しばらく会えないからって言おうと思っただけだから』  亮平のあっさりとした言葉に、壱月は拍子抜けしたように、そう、とだけ返した。 『あ、いや、会いたくないわけじゃないんだ。おれはいつでも壱月に会いたいからな! 好きだから、ホントに』  壱月の声が残念そうに聞こえたのか、亮平が慌てたように言葉を繋げる。壱月は思わず、ふ、と息を洩らすように笑った。 「知ってるよ」 『ホント……ホントに、大好きなんだ、壱月』  その真剣な告白に、壱月は首を傾げながら、うん、と答える。 『とにかく、戻ったら連絡するから』  急に真面目な告白をして恥ずかしさがこみ上げたのか、亮平はぎこちなくそう言って電話を切った。  人と話したからか、充分に泣いたからか、少しだけ気分の変わった壱月は、重たい頭を押さえながら部屋を出た。 昼過ぎの今はさすがに誰も居ないだろうと思っていたのだが、ソファで横になる楽を見つけ、壱月は驚いて近づいた。 「楽……?」  ソファの傍に座り込みそっと声を掛ける。さらさらと前髪が落ちる整った顔は眠っていてもキレイだった。長い睫毛が揺れ、ゆっくりとその目が開く。  壱月の姿を捉えたその目がぱちりと開き、楽が思い切り体を起こす。 「壱月! 体は? 平気?」  壱月の両肩を掴み、楽がまっすぐこちらを見つめる。その心配そうな顔に、壱月は微笑んで頷いた。 「そう……良かった」 「あの……彼、は?」 恐る恐る壱月が聞くと楽は、帰ったよ、とため息をついた。そのため息が、どんな感情からなのか分からず、壱月は眉を下げた。 「……ごめんね」 「それは……何に対して?」 「え?」  楽の質問に首を傾げると楽はもう一度大きくため息を吐いた。 「いや……壱月が無事ならいい」  楽はそっと壱月の頬を撫でてから立ち上がった。その手が冷たい。 「楽……」 「俺は謝らないから」  楽はそれだけ言うと立ち上がり、そのままリビングを出ていった。  謝らない、ということは、昨日のことは本心だということだろう。もう自分に気を遣うのは疲れたということだ。  確かにこうして倒れるのも二回目だ。いつまでも成長しない慣れない壱月に愛想が尽きても仕方ない。 「もう……無理なのかな……」  一緒に居ることも、楽の恋愛を見ていることも。  壱月は楽の部屋のドアを見つめながら、小さくため息を吐いた。
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