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それから、楽と会うことはなくなった。同じ部屋に住んでいても、努力しなければこんなにも顔を合わすことはないのかと思うほどに、二人の生活はすれ違っていた。
楽はあの日からほとんど家に帰らなくなった。帰っても壱月が眠った後で、朝家を出る時に玄関に靴があることで在宅がわかるくらいで、その気配すら感じることは無かった。
壱月はその日の朝も、コーヒーサイフォンの前でため息を零した。
「何やってんだろ、僕……」
習慣のせいか、バカみたいに楽への想いを引き摺っているせいか、壱月は未だに毎朝コーヒーを淹れていた。空になっている日もあれば、手付かずのまま冷たくなっている日もある。最近は、ほとんど後者だった。なのに、辞められない。壱月の中で、コーヒーの存在は楽との繋がりそのものに思えるところがあった。これがあったから、楽は自分と同居するなんてことを言い出した。なければ、こんなに近くに居られたかわからない。
だから、コーヒーを淹れる事を辞めるなんて壱月にはできないのだ。こんな風になったって、離れるのは嫌だと思っている。
「これでよし、っと」
サイフォンを片付けた壱月はソファに投げ出してあった上着とカバンを手に取った。今日からまた気温が下がるという予報を見て、昨日引っ張り出してきたジャケットは厚手のものだ。そのジャケットを羽織りながら、こんな風に寂しい気持ちのままに季節が変わってしまうのかと考える。
楽の傍にいたい。それは変わらない。
だけど寂しいのは嫌だ。その存在を感じられないのは嫌だ。どんなに派手な恋愛をしていても構わないと思っていた。一日に一度は必ず自分のためだけの時間を楽は作ってくれていたから、そのために自分はここにいるのだと思うことができた。その時間は楽しくて、嬉しくて、毎日その時間に楽に惚れ直すほどだった。楽に毎日恋をしていた。
けれど、あの日からそれはない。
「この部屋に居る意味って、もうないのかな……」
壱月は玄関のドアを抜け、廊下を歩き出しながら、ぽつりと呟いた。
部屋を出て行くこと、それはすなわち壱月にとって、楽を諦めることと同意だ。それは抵抗がある。けれど、これ以上楽の重荷になるのも嫌だった。
壱月はアパートを振り返った。あの窓の向こうには確かに楽しい二人の時間があったはずなのに、今は寒々と閉め切ったカーテンが見えるだけだった。
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