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翌日、あまり気が進まなかったが必修の講義があったため、壱月は重たい体を引きずって大学へと来ていた。
目元の腫れは朝になっても引かなかったので今日は眼鏡にした。これで少しは隠れるかと思ったが、普段はコンタクトなため、逆に友人たちはそれに気づき、顔を見て何かを察し、なぜか妙に優しかった。
「……帰ろうかな……」
午前中の必修の講義が終わり、教室から出た壱月は、ぼんやりとそんなことを呟いた。午後にもう一つ講義が入っていたが、まだ出席は足りている。無理をすることもない。
よし帰ろう、と決めて歩き出した、その時だった。突然動き出してしまったせいだろう、すれ違った学生と肩がぶつかる。
「あ、ごめんなさ……あれ? 壱月くん?」
すれ違った先でそう言って振り返ったのは、由梨乃だった。
「あ……久しぶり」
最後に見た由梨乃の姿は楽に玄関から放り投げられているところだったので、なんとなくバツが悪くて、壱月は小さく笑んだ。
由梨乃はその態度に気づいたのか、優しく笑って、大丈夫だよ、とこちらに向き合う。
「この間のことなら、私が悪かったの。壱月くんがそんな顔することないよ。それより……何かあったの?」
由梨乃がそう言ってじっと壱月の顔を見つめる。目元を見られているのが分かり、気づかれたと察した壱月は、少しね、と笑った。
楽にフラれて朝まで泣いていた、とは言えない。
「ねえ、壱月くん。このままランチ行かない? この間のコーヒーのお礼に奢っちゃう」
行こ、と由梨乃が壱月の手を引く。
「え、ちょっ、由梨乃ちゃん、講義は?」
「サボり! まだ平気だから」
手を繋いだまま由梨乃が笑う。きっと壱月がどうしようもなくボロボロな顔をしていたから、由梨乃は放っておけなくなったのだろう。正直、一人になったらまた泣いてしまうところだったのでこの誘いは嬉しかった。
今は由梨乃の優しさに甘えることにして、手を引かれるまま壱月は付いていった。
「で? 楽と何かあった?」
いつも亮平と待ち合わせをしていたカフェの席に落ち着いた由梨乃は、目の前の壱月を見つめ、そう切り出した。
「……どうして、楽?」
「だって、壱月くん、恋人いないって言ってたし、泣くほど友達とトラブる性格でもなさそうだし、だったら楽が苛めたとしか思えないじゃない」
目の前に届いたランチプレートのオムライスにスプーンを差し込みながら由梨乃が言う。
女の勘はよく当たるというが、きっと観察眼が鋭いのだろう。一日会っただけでそこまで分かってしまっていたとは恐れ入る。
「大したことじゃないけど……もう一緒には暮せないかもなって……」
あまり食欲がなかった壱月は、いつもの紅茶とサンドイッチを頼んでいた。けれどまだ紅茶にしか口をつけていない。昨夜のことを思い出すと飲み物すら逆流してきそうだ。
やりたくない――そんな言葉で拒絶された。可能か不可能かではなく、感情で拒否されたことは、壱月にとって大きかった。
出来ない、と言われたら、長年友達としてしか見てなかったんだから、なんて自分の中で言い訳も作れる。けれど、やりたくない、は別だ。
誘われれば誰とでも関係する楽が言うその言葉は重かった。自分は、そんな一夜の相手にもなれない、それ以下だということだ。
そんなことを知って、それでも親友の顔をして今まで通りあの部屋で楽と暮すなんて、耐えられるわけがない。
「ねえ……私のせい? この間、楽めちゃくちゃ怒ってて、壱月くん何も悪くないのに責められてたみたいだし……それで、ケンカした?」
由梨乃が心配そうにそう聞く。それに対し壱月は緩く首を振った。
確かに言い争いはしたし、その仕返しのようなこともされた。けれど、こんなふうになったのはそれだけではない。
きっと、壱月自身の限界も迎えていたのだろうと思う。楽の恋愛を傍で見ながら、その想いを隠して生活することは、気づかない内に心に負担を掛けていたのだろう。
「ケンカ、とかじゃないんだ。元々さ、僕と楽じゃ色々違い過ぎたんだ。価値観とか、そういうの。三年目でひずみが出てきたのかな」
価値観も金銭感覚も遊びの範囲も生活習慣もまるで違う。それでもお互いに譲り合って理解し合ってその隙間を埋めるルールを作って生活してきた。それが出来たのは、互いに大切な想いを持っているからだと思っていた。壱月は、恋心を、楽は唯一の親友という友情を、大事にしたいから歩み寄れた。
けれど今の楽にもうその気持ちがないのなら、壱月にとってあの部屋はただの箱だ。
冷たく辛いだけの檻の様な箱に居たいとは思えない。
「壱月くんはそう感じるのかもだけど、楽にとって、壱月くんは必要な人なんじゃないかな?」
「まさか。楽が僕を必要なんて……」
確かに初めは必要だったのかもしれない。コーヒーを淹れてくれる人、部屋の掃除をしてくれる人、食事の用意をしてくれる人……そんな意味でもいいから必要とされたかったと自分でも思っていたし、楽にとってそういう意味で必要だったかもしれない。
けれど今はそのどれもしていなくて、でも楽は毎日ちゃんと生活している。自分なんか必要ではない。
「ねえ、今、家事やってるからかな? くらいに思ってたでしょ」
由梨乃が持っていたスプーンをこちらに向け、少し怒った表情をする。
「……実際そうでしょ」
少し自棄になっている壱月が乱暴に答えると、スプーンを下ろした由梨乃が大きなため息を吐いた。
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