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9
翌日の朝は、よく寝たお陰もありすっきりと目覚めることが出来た。瞼の腫れも引き、コンタクトも入った。カバンに荷物を詰め込んでホテルをチェックアウトした壱月は、駅のコインロッカーに荷物を預けてから大学へと向かった。
壱月昨日どうした? なんて話しかけてくれる友人に、ちょっと体調崩して、なんて適当な嘘を吐きながらいつもの教室へと向かう。
変わらない日々がこのまま続く。そこに楽がいないだけで後は何も変わらない。
胸の中にぽっかりと穴が開いたようなそんな寂しさはあるけれど、きっとそれだって次第に埋まっていくはずだ。そして、今は考えられなくても新しい恋もするかもしれない。
楽ほど好きになれなくても、きっと幸せにはなれるはずだ。
そう思い込むしかない。
壱月がそう考えながら教室に入った時だった。ポケットに入れていたスマホが鳴り、慌てて取り出す。もうすぐ講義が始まることもあり、壱月は掛け直してもらおうと、相手も見ずにその電話を取った。
「もうすぐ講義始まるからあとで……」
壱月がそう言いかけた、その時だった。
『……壱月』
その声を聞いた途端、壱月の体は固まった。心臓が跳ね、そのままドキドキと脈打つ。
「が、く……?」
『うん。ちょっと話あるんだけど、今日時間いいか?』
「い、まさら……何話すの? 僕の部屋を空けろって言うならすぐそうするから……」
『話したい。時間、作ってくれ』
動揺から、少し早口に捲くし立てる壱月の言葉を遮って、いつもよりもずっと落ち着いた声で楽が返した。壱月が深く呼吸を繰り返し、唾を飲み込む。
きっとこれが最後だ。確かにあんな別れ方は嫌だ。ちゃんと笑顔で、同居してくれてありがとう、と伝えられるならそれもいいかもしれない。
「……わかった。夜でいい?」
『八時に俺のバイト先で』
壱月は、わかった、と頷いて電話を切った。
壱月はまだ震えている指先を強く握り締めて苦く笑った。動揺と不安はある。もう楽と話すことなどないと思っていたし、話したくないのは向こうだと思っていた。それだけに、嬉しかった。ただ純粋に、また楽の顔が見れると思っただけで嬉しかったのだ。
あんなに泣いたのに。諦めようって決意したのに。
その声を聞いただけでまた、気持ちは簡単に揺れ動く。
そのくらい、楽が好きだった。
駅前通にある生垣で囲まれたカフェは、楽自身がバイトしてるということもあり、楽によく連れて行かれた店だった。スイーツもコーヒーも美味しいが、壱月にとってはやっぱり同じバイト仲間の女の子たちと話す楽の姿が胸に尖った錘を落とされているようで、少し辛い場所だったので、1人で来ることはまずなかった。
それでも唯一嬉しかったのは、楽がそこではコーヒーを飲まなかったことだ。「壱月のコーヒー飲んじゃうと、他で飲めない」と言ってくれたのが何より嬉しかった。
そんなことを思い出しながら、壱月は駅からその店に向かって歩いていた。今日は随分冷え込むせいか、ブルゾンだけでは少し寒い。指先まで冷え切っている。緊張しているのかも、と指先を握りこんで早足で先へ進むと、すぐそこに葉の落ちた生垣が見えていた。
店のドアを開けると、ケーキのショーケースの奥からタブリエを巻いたホール係の女の子が笑顔で出迎える。その顔が、一瞬驚いたように変わり、再び笑顔に戻る。
「壱月くん、いらっしゃい」
突然そんな風に話しかけられ、壱月は小首を傾げる。しばらく彼女の顔を見てから、それが楽のバイト仲間で、元カノの女の子だと気づいた。
「あ、えっと……」
「待ち合わせでしょ? いつもの奥の隅に居るよ、楽」
彼女の視線が店の奥へと壱月を導く。壱月は、ありがと、と言って、一歩進んだ。その度に、心臓が大きく音を立てているようで少し煩かった。
観葉植物の向こうへと踏み出すと、一番奥のソファ席にもたれるように座っている楽が居た。壱月と来ていた時も、いつもあの席でリラックスしていたな、と思い出す。
ただ、その席に居たのは楽だけではなかった。壱月の立つ位置からは後頭部しか見えないが、若い男だというのはわかった。壱月の体の中が、急速に冷えていく。
きっと、楽が一人に決めた相手だろう。その人を紹介されるのは辛い。今、壱月が想像するのは、どれも最悪の言葉だった。
『コイツと同棲することにしたから、部屋ちゃんと空けてくれない?』『コイツが嫌だっていうから、俺の番号消してくんない?』――想像はありえないところまで広がっていく。
強い目眩の中、楽と目が合った。煙草の火を消した楽は、視線を合わせ人差し指で壱月を呼んだ。糸か何かで引かれる様に壱月が少しずつ楽に近づく。
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