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「さすが壱月、時間ぴったり」
近づいた壱月に、楽が口角を引き上げる。その表情が何を思っているのかわからなくて、壱月は固い表情のまま頷いた。
「楽……? どうして、ここに壱月?」
その言葉に壱月はすぐ隣を見下ろした。聞いたことのある声だと思ったら、そこに居たのは及川だった。動揺から挑むような鋭いものに変わる視線を受けて、壱月は居たたまれず、及川から視線を逸らせた。
「どうしてって……勝手に付いてきたのそっちだろ? 俺は初めから壱月と話すつもりだった」
楽に親指で指され、壱月は訝しげな顔で楽を見る。及川が、よく分からないという顔を楽に向けていた。
「楽、あの日言ったよな? 壱月が出ていったら一緒に住んでくれるって。オレのことも抱けるって言ってくれたよな?」
「ああ……言ったな」
楽の答えに、だったら、と及川が噛みつく。面倒そうに楽がそっぽを向いた。それを見て、壱月がため息を吐く。
「あのさ、楽。もうお前の恋愛に僕を巻き込むの、やめてほしいんだけど」
もう傍で見ているのは辛い。忘れたくても顔を見たらやっぱり好きだと思ってしまう、こんな自分から抜け出したい。叶わない恋をいつまでも抱えてられるほど強くなかった。
そう思って言うと、楽がこちらをじっと見つめ、口を開いた。
「しょうがないじゃん。気づいちゃったんだから……一番大事なのは誰か、一番手に入れたいのは……泣かせたくないのは誰なのか」
楽は滅多に見せない真面目な顔で壱月を見つめた。冷え切っていた体が更に冷えていく。体温がどこまでも下がっていくような、そんな気がした。不安だけで鼓動を繰り返していた心臓が、止まりそうなくらい収縮する。
「だから、それって……」
及川のことだろ、とは言えなくて壱月が黙り込む。その顔を見て、及川が勝ち誇った様に笑んだ。及川自身も自分のことと思ったのだろう。
「楽、こんなこと言う為に壱月呼んだのか? 可哀そうじゃない?」
「なんでだよ? 俺は壱月と帰るために呼んだんだから、壱月がいなくてどうするんだよ。そういうことだから、もう付きまとうな。行こう、壱月」
伝票を手に立ち上がった楽が壱月の肩をぽん、と押してここから離れることを促した。
「でも、楽……」
意味が分からない。楽の中では話が繋がっているようだが、壱月の中ではちっとも繋がらない。及川を見ると、こちらも同じようだった。
「どういうことだよ、楽。オレ、気持ち伝えたはずだよ。オレには連絡するなってメッセージも来なかった。それでこうして会ってる……それって、そういうことだろ?」
「どういうもそういうも……付き合ってるつもりなかったからメッセージ送らなかっただけだし。そもそも同級生っていうけど、及川のこと俺覚えてないし、そんなヤツと付き合うとか同居とか初めから無理だし……てか、壱月に出ていかせるとか考えてなかったし」
「でも、抱けるって……」
「可能か不可能かって聞かれたら、可能ってだけで、抱く気はないよ。……もういいだろ」
及川にそれだけ言うと、楽は先に歩いていった。壱月は及川に何か言葉を掛けようとするか、見つからずにただ立ち尽くす。
「……オレと壱月、何が違ったんだろうな……あの頃、似たようなものだったのに……」
地味でクソ真面目でさ、と及川に言われ、壱月は唇を噛み締めた。
何が違ったのかなんて分からない。もし、高校の頃楽が及川を紹介されていたら立場は逆だったのかもしれない。
「及川、あの……」
「謝るつもりならやめてくれ。オレも謝らないから」
及川はそう言うと壱月から視線を逸らした。
多分、自分は及川に騙されていたのだろう。あの部屋を意図的に追い出されて、そこに及川が収まるつもりでかつての友人は動いていた。楽への恋を再燃させたのかもしれないし、憧れの楽の傍に未だに自分なんかが居て腹が立ったのかもしれない。
理由も真相も分からないけれど、及川を嫌いになることは出来なかった。
だから何かしてあげたいと思ったのだが、どうしたら及川の気持ちがラクになるのか、考えても分からない。
「壱月。何かしたいなら、すぐに立ち去ってやるのが一番だよ」
少し先で待っていた楽に、ばっさりと切るように言われ、壱月はゆっくりと歩き出した。
振り返った及川の背中は、小さく震えていて、壱月は目を瞑って見ないフリをしてその場を離れた。
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