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 店の外へ出ると、楽はいつもの調子で、さみー、なんて両肩を手で擦った。  壱月は、楽のその態度の変化が分からなかった。この間会った時は、もう二度と会わないだろうと思えるほどに拒絶されたと思ったのに、今日はそんなことどころか、壱月の家出前と変わらないものになっている。 「楽、今、何が何だか分かんないんだけど……」 「何って、今日はホントに壱月と帰るつもりで呼んだんだ。及川は、どうしても話がしたいって言うから壱月が来るまでならって……後は帰ったら話すよ。とりあえず寒いから帰ろう。ほら、これ巻いとけ」  寒そうだ、と楽がかばんから取り出したのは、真っ白なマフラーだった。 「これ……」 「壱月のだろ」  楽がマフラーを広げ、壱月の首に優しく巻いた。全部なかったことにして、友達としてやり直すつもりなのだろうかと壱月は思った。けれど、もうそれを受け入れられるか、自信がなかった。やっぱり楽が好きなのだ。近くで恋愛模様を見ていられるような寛容さは、もう売り切れた。  もう好きな人が一瞬でも誰かと繋がっているところなんて見たくない。  楽の考えがひとつも掴めないまま、壱月は不安を抱え、ただ楽の半歩後ろを歩いていった。顔を埋めたマフラーからは、ほのかに楽の匂いがして、それが少しだけ壱月の心を静めてくれる。  アパートの少し手前で楽が立ち止まるまで、二人の間に会話はなかった。砂利の擦れる音がして、壱月は伏せがちだった顔を上げて楽の背中を見つめた。 「楽? どうかした?」 「……多分、壱月に用あるんじゃない?」  楽が体を斜めに開いた。その先に見えるアパートのエントランス前の低い階段に腰掛けているのは、亮平だった。 「亮平……」 「別れたんじゃなかったの?」  驚く壱月に、楽がぶっきらぼうに聞いた。壱月が頷く。 「別れたよ。ふられたんだ」  どうして、と口の中で呟きながら亮平に近づくと、その顔が上がり壱月の姿を捉える。 亮平はバネのように立ち上がると、すぐに壱月の傍へと駆け寄った。 「壱月、昨日どこに居た?」 「え? 昨日?」  一日ホテルに閉じこもっていた……それを思い出した後、そういえば亮平にはこのアパートを出たことなど伝えていなかったと思い出す。 「夕方からずっと待ってて……帰らなかったから、心配してた」 「何か用なら電話くれればいいのに」 「スマホから、壱月の番号消したんだ。未練、残らないように」  壱月は、そうなんだ、とだけ答えた。そこまでしなくてはいけないほどの存在でもないだろうに、と心の中では思っていた。周りに言われたからといって切るような関係だったのだ。未練など残らないだろう。 「壱月、おれ、就職決まったよ。卒論も完成した」 「そう。おめでとう」  壱月が言うと、その視界の端で黒のコートが通り過ぎていった。アパートの壁にもたれ、煙草に火をつけるのは、楽だった。じっとこちらのやりとりを見ている。 「おれ、ホントに頑張ったと思うんだ。世の中でこういう状態のことを順風満帆っていうんだと思う……でも、足りないんだ」 「何が? これ以上の何かはワガママじゃない? それにそんなこと僕に言われても……」 「やり直そう、壱月」  壱月がため息を吐きながら言葉を並べていると、それを遮るように亮平が言った。一瞬、何を言われたか分からなくて亮平の顔を見つめてしまう。 「おれには壱月が必要なんだ。離れるなんて、やっぱり無理なんだよ」 「何……言ってんの……」  亮平の告白に壱月はその顔を見つめた。苦しそうな切なそうな表情から嘘は見えない。 けれど壱月は、できない、と首を振った。 「壱月。勝手なのはわかってるよ」 「違う、そうじゃなくて」  この人のところへ戻るなど出来ない。誰より優しくしてくれた人だから、これ以上傍にはいられない。迷惑は掛けられない。なにより、自分の気持ちに嘘を吐きながら亮平と過ごすなど、もう出来そうにない。 「僕と居たらダメだ。亮平はもっと違う人を探すべきだよ。せっかく取った内定だって取り消されるかもしれない。卒論だってまたデータ消えるかもしれない。やめときなよ、僕なんか」  精一杯の笑顔で壱月が言うと亮平は、そんなの、と首を振る。 「なんとかする。今回だってなんとかなった。なあ、壱月……」  亮平が壱月に手を伸ばす。抱きしめられると思って壱月は拒絶するように腕を伸ばした次の瞬間、その腕は真横から伸びた手に取られ、傾いだ体は黒いコートにすっぽりと収まってしまった。 「お前っ……」 「が、く……?」  亮平と壱月の声が重なり、楽は面倒そうに、何、と答えた。 「今、壱月と大事な話してんだよ」 「だから、話の間は待ってた。でも話じゃないことしようとしたでしょ? ダメだよ。もうあんたのものじゃないんだから」  楽の言葉に亮平の顔が鋭く変わっていく。二人の間で壱月はどうすればいいのかわからず、楽に抱きしめられたまま、ただ様子を見守っていた。ドキドキと心臓がうるさい。 「壱月と話をしてるんだから、お前は関係ないだろ」 「よくまあ、この状況見てそんなこと言えるよな。だから、簡単に壱月のこと捨てられるんだろ」 「捨てたわけじゃない!」  楽の言葉に亮平は噛み付くように返す。けれど冷ややかに見下したままの楽は、捨てたんだよ、と繰り返した。 「それで状況が好転したらまた壱月に甘えて、それで上手くいかなくなったら、また何かしらの理由をつけて壱月を捨てるんだよ」 「バカなこと言うなよ! お前みたいなヤツに、おれの何がわかるっていうんだよ。……聞いたよ、お前、誰も本気で好きになったことないんだってな」  そんなヤツに恋愛ごとなんか説かれたくない、と亮平が楽を睨みつける。それを冷静に受け止めた楽は、なんだそんなこと、と口を開いた。 「それ、いつの話? 人を好きになる気持ちくらいわかるよ。俺は壱月が好きだから」  楽から発せられた言葉は亮平だけでなく、壱月も驚く。びっくりして楽を見上げると、その顔はしっかりと亮平を見据えていた。 「初耳だな」 「そりゃそうだよ。まだ本人にだって言ってない。……だから、壱月はあんたのとこには戻らない。俺が戻らせない。行こう、壱月」  ぐいと腕を引かれ、壱月は歩き出す。 「壱月」  亮平がそんな壱月に声を掛ける。その目が、本当にいいのか、とこちらに聞いていた。 「……今までありがとう、亮平」  壱月がそう言うと、亮平は大きくため息を吐いた。 壱月の気持ちが届いたのか思い過ごしなのか、亮平は幾分穏やかな表情を浮かべ、背を向けて帰って行った。  それを見ていた楽が再び壱月の腕を引く。壱月はそれに慌てて付いていくように歩き出した。
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