避暑地

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 山に囲まれた高温多湿の窪地を、住人たちは避暑地と呼んでいた。夏の日陰みたいな物憂さと済ました静けさが、軽井沢を彷彿とさせるらしかった。  避暑地は湖畔沿いに点在する集落で、湖に面した二階建ての、白く四角い建物が私の勤める役場だった。私は生活環境課の職員で、ここに住む孤独な高齢者たちには、窓口に陳情したいことが山のようにあった。長椅子の列は病院の待合室並みに、常に人で埋まっていた。まともな陳情はほぼなかった。  田坂(たさか)という萎れた老女は、蟻の群れが発する、行列のパターンに形象化されるシグナルを、逐一窓口に報告しに来た。当人は至って真面目に、義務に基いて陳情に来ていた。私は田坂の陳情を聞くうちに、下り坂で列が二股に別れたり、風下に沿って左に蛇行した時は凶兆といった幾つかのシグナルを覚えてしまい、昼食時によく同僚との話の肴にしては笑い合った。  その田坂がテレビを見ながら順番待ちをしていた時に、画面に映った国会中継で答弁中の財務大臣を指差し、「あれ、うちの旦那」と言った。反応はまるでなかったが、発言を疑う空気もなかった。それがここでは珍しくも何ともなかったからだ。  ここの全住人が財政界の要人と血縁者で、先天的にか後天的にか、何らかの事情で精神疾患を抱えていた。野放しにすれば奇矯な言動に及んでイメージを失墜させかねないといった理由で、財政界の誰かが、彼らを囲う檻を作る必要に迫られたのだろう。  私はここに職を得て移住するまでは、都内在住の一派遣社員に過ぎなかった。私の所属の派遣会社は、政権との癒着が取り沙汰される業界最大手の会社で、ある日私は突然、半蔵門の本社から呼び出しを受けた。狭い会議室の一つで私を待っていたのは、紺の背広姿で目付きの鋭い、官僚臭をぷんぷんと漂わせた男で、自らを須藤(すどう)と名乗った。  係累のない独身者だったせいか、私は須藤から避暑地の役場の嘱託を斡旋され、破格の待遇に釣られて契約書に署名した。須藤は私に執拗に守秘義務を迫り、義務に抵触しそうな人間を見付けた際の通告義務も課してきた。契約の不履行が発覚した場合、任意に質疑を行う場合があるという条項が契約書にあり、それは尋問を連想させた。  彼らの知覚と思考は相当に怪しかったが、情報漏洩の恐れはほぼなかった。彼らは温和で、生温い連携の空気を壊したがる者は殆どいなかった。彼らの中で安寧を壊す陳情を持ちかけてくるのは、園田(そのだ)という険のある痩せぎすの老婦人くらいのものだった。  園田はかなりの古株で、新顔が来る度にたいてい悶着を起こしたが、半年ほど前に越してきた芳賀(はが)という、眼鏡以外にさして特徴もない中年男への執着は相当なものだった。園田は週に二度は窓口を訪れては、芳賀の住民権剥奪を訴えてきた。  園田の主張は、芳賀は人間ではなく、邪な意図で創られた人形だというものだった。園田の家は芳賀の家の向かいなので、家での芳賀の様子がかなりよく分かるそうだ。  園田によると芳賀は、家では殆ど中途な姿勢で静止しているという。誰かの人目に触れそうになった時だけ、何かのスイッチが入ったようにいきなり動き出すそうだった。  園田が気分転換に湖畔の食道で昼食を取った時があった。園田の視界の先には、テーブルの一つに座る芳賀の背中があった。先に食事を終えた芳賀が立とうとした際にシャツの後ろ襟が下がって、襟元から覗いた芳賀の首の後ろに、背骨に沿って縦に走る銀色の線が一瞬見え、園田は目を疑ったという。それは明らかにチャックだった、と園田は断言した。  四半期に一度、私は須藤と面談した。須藤の関心は守秘義務の維持で、対人的軋轢は業務の範疇外らしかった。試しに私が園田の件を須藤に話すと、君は何の為に国費から給与を支給されている、と返されただけだった。その私が芳賀と酒を飲むようになるのだから、世の中は皮肉なものだ。  軽食も出すアリゾナというダイナーが避暑地にあった。アリゾナは常に客が少なく、中で他の客と出喰わすのは珍しかった。仕事帰りに酒で憂さを晴らそうと私が入口の扉を開けると、既にカウンターにへばり付いた芳賀の姿があった。私はこの時初めて、芳賀と会話した。私も芳賀も園田の被害者という点で一致していたので、交わされた共感の根は意外に深かった。  私は週に一、二度、アリゾナのカウンターで芳賀と飲むようになった。初夏のある晩、勘定をしようと芳賀がジャケットの内ポケから取り出した財布を開いた時、隣の席にいた私の目に財布の中身が一瞬映った。札入れに挟まれていた身分証が目に映ったのも一瞬だったが、それで十分だった。顔写真入りのその身分証には、誰もが知る大手新聞社の記者と記されていた。  ここには秘密裡に認可された者しか入れないので、新聞記者が紛れ込むことなど考えられなかった。すると身分を偽って潜入したという結論に、どう考えても至ってしまった。私は密告などというスパイ映画紛いの行為に関わろうとは思いもよらなかったが、いざその立場になると、一人の命の重さにたじろいでしまった。須藤が吹き込んだ時限爆弾が、ここに至って脳内で炸裂した。芳賀の命の重さを掌で転がしている場合ではないと、私は急に気が付いた。不履行が発覚すれば、今度は私の命が重さが誰かの掌の上で計られる羽目になるのだ。  私は梅雨時の曇りの夜、自宅から須藤に電話をすると、数十分後に表に車の停まる音がして、須藤が入室してきた。須藤は私を外に連れ出し、黒塗りの政府公用車の後部座席に私と同乗した。私はアリゾナの道順を須藤に説明した。  芳賀は例によってカウンターにへばり付いて飲んでいた。私たちに不審げな表情を向けた芳賀に須藤が歩み寄り、内閣調査室の所属だと身分を明かして芳賀に任意同行を求めた。芳賀はおとなしく須藤に従った。私が助手席に乗り、須藤に押し込まれた芳賀は上体を後部席に突き出して助手席を振り返り、一瞬私と目が合った。芳賀の瞳は屠られる間際の牛みたいに黒く濡れ輝き、全てを悟ったような諦念の色が滲んでいた。  発射した車は斜面をひたすら上り、山頂付近の路側帯で停車した。須藤は私にも着いてくるように指示すると、芳賀を連れて森の中に入った。須藤と運転手の懐中電灯があっても夜の森の闇は膨大で、二条の光芒が木々の荒れた表皮や地表に剥き出した土を僅かに照らすばかりだった。枝葉や下藪を掻き分けて須藤がしばらく前進すると、そこだけ円型に拓けた草地に出た。見上げると円形に覗く夜空に浮かぶ黄色い半月が見えた。  芳賀の奥襟を摑んでいた須藤が、芳賀をその場に跪かせた。須藤が芳賀のシャツの奥襟をぐっと引き下げると、月明りの下で芳賀の首に縦に走る銀色の線が露わになった。  まさか、と私が思う間に須藤がチャックを一気に下げると、芳賀が絶叫した。チャックが開いた芳賀の首には、白い綿がぎっしりと詰まっていた。須藤の腕は芳賀の首に肘近くまで沈んだ。須藤は芳賀の首から綿を掻き出し続け、芳賀の周囲は風に舞う白い綿だらけになった。その度に芳賀の容積が薄っぺらに萎れ、空気の抜けたゴムボートのように二つ折りに地面に横たわった。平たくなった芳賀の残滓にはっきりと顔の形状が認められるのが、胸の底から嫌悪感を掻き立てた。  私は須藤に促されて車に乗って山を下る間、完全に頭が飽和してしまった。車がアリゾナの前で停まると、須藤は契約を履行したことを褒めてから私を解放した。車を降りた私が須藤を一瞥すると、須藤は悪戯っぽい笑みを浮かべて唇の前に立てた人差し指を当てると、歯の隙間から掠れた呼気を漏らした。  それ以降、窓口で園田の姿を見ることはなくなった。住人たちの陳情が全く違う意味を持つようになり、陳情通りのシグナルが実は周囲に溢れていたことに、ようやく私は気が付き始めた。目にする蟻の行列の法則性を摑み始め、私は街路樹を二股に上る軌跡の中に凶兆を見た。  橋爪(はしづめ)という老人のスマホの陳情も、間違いなく真実だった。スマホは来訪者が私たち監視する為に開発したツールで、私たち自身の全生体データが、スマホ経由で来訪者に転送されるのだった。そのデータ集積中継地が、園田邸の屋根裏部屋なのだそうだ。橋爪によると、園田が新参者に粘着するのは、集積に支障を来す他種族が紛れていないかを監視する為で、それが園田が芳賀の正体を見抜いた理由だった。橋爪は屋根裏部屋にある集計器を破壊しないと、人類は数年で彼らの支配下に置かれると私に訴えた。  橋爪が意見書に記載しようとしたので、それは何の役にも立たないことを私は指摘した。書類処理の内幕を説明すると、国はいつも私たちを助けてくれないと橋爪は子供のような泣き顔を浮かべた。私は橋爪を安心させようと、自分にできる精一杯の笑みを見せた。国も私たちを一切鑑みないわけではないことを伝えると、橋爪が怪訝そうな顔になったので、私は自らを指差して言った。真に国民を憂う官吏も少なからずいるものです、と。  私は昼休みになると、赤い煉瓦張りの外壁が特徴的な園田の家のインターホンを押した。しばらして玄関のドア越しに顔を覗かせた、エプロン姿の園田に私は尋ねた。 「その後、芳賀さんの方はいかがですか?」  私の質問に、園田は眉を顰めて訊き返してきた。 「え、誰ですって?」 「芳賀さんです。向かいのお住まいの」 「そんな人、知りません」  急に怯えた素振りになった園田がドアを閉めようとしたが、私は素早く上体をドア枠に滑り込ませた。園田は刺されたような悲鳴を上げながら、両手で私を押し出そうとした。私は同僚から「お気持ち屋」の通称の理由である微笑みを最大限に浮かべ、落ち着いて話をしたいと訴えたが、園田は悲鳴を上げ続けるばかりだった。  周囲が騒がしくなって私が背後を振り返ると、立ちはだかる二人の白衣の巨漢の背後に、後部ドアを開けて停車している総合病院の救急車が見え、私はふいに怒りが膨れ上がるのを感じた。俺はこいつらとは違うんだと必死に訴えたが、彼らにはそれを理解する頭がないらしく、両側からすさまじい力で私に摑みかかってきた。私は奇声を上げながら暴れ、彼らの向う脛を踵で思い切り蹴飛ばしたが、彼らは大木のように微動だにしなかった。為す術なく救急車に押し込まれた私は、中にいた救急隊員に素早く何かを注射され、一挙に世界が熱したチーズのように蕩けて混濁した。  次に気付くと、私は白くざらついた布地の拘束衣でベッドに縛り付けられ、首も起こせなかった。半ば意識が剥離したまま白い天井を見上げ、二人の男の話し声をぼんやりと聞いていた。公務員になる妄想の一体何処が楽しいんだ、と低い声が聞こえ、帰属意識が高いんだろ、と掠れた声が応じた。まだ目が回るのできつく瞼を閉じながら、一体誰の噂話をしているのだろうと私は考えた。
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