引継ぎ

1/1
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「さっさと辞めちまえ!この給料泥棒!」  また始まった。まだ始業開始から五分しか経っていないのに、課長の怒号が響く。  今日も朝からいじめのターゲットにされたAさんが、いつものように項垂れながら「すみません……」と繰り返している。 「お前、わかってねえだろ。馬鹿の一つ覚えみたいに”すみません”て言ってりゃいいと思ってんじゃねえよ!」 「……はい」 「はい、じゃねえだろ!何が”はい”なんだ?」 「……」 「黙ってたらわかんねえだろ!何とか言って見ろ!」 「……はあ、すみません」 「だっからあ、すみませんばっかし言ってんじゃねえよ!人の言う事聞いてねえのかよ。それとも俺の言う事なんか馬鹿馬鹿しくて聞いてらんねえってか?」  その通り。本当、馬鹿馬鹿しくて聞いてられない。横で聞いてる私は心の中で思う。私は一番の新参者で、この職場でまだ3ヶ月にしかならないけど、もう、いい加減うんざりしている。私が入った時から、Aさんをターゲットにしたいじめがここでは常態化していたのだ。横で見ていても、どうみても課長の言ってることは、単なる言いがかりに過ぎないものばかりだ。新人の私でさえそれはすぐに分かった。つまりは、”誰でもよかった” というやつだろう。通り魔や愉快犯といった連中が判で押したように呟く言葉。ストレスのはけ口として誰かを罵倒することが出来ればそれで良いというわけで、Aさんが、不幸にもその生贄に選ばれてしまっただけなのだ。  Aさんをターゲットにしていたのは、課長と、業務主任のK子さん、そしてその腰ぎんちゃくみたいな、三年目のS子さんの三人だった。K子さんは、一応ベテランで業務知識もそれなりにはあるのだが、その知識や考え方も、最近では、世の最新の状況とは少々ギャップを感じさせるような場面も出てきていた。ある時、Aさんがそれを意識させるような意見を言ったらしく、それ以来、K子さんはAさんを目の敵にするようになったということらしい。大声で罵倒する課長と違って、ネチネチと嫌味を言ったり、自分が仕切ることの出来るミーティングや食事会等から、露骨にAさんを外すとか、誹謗中傷めいたメールでAさんの評判を貶めるとか、とにかく陰険なやり方で彼女を苦しめていた。  そして、S子さんの役割は、いかにも下っ端の小悪党というか、ことあるごとにAさんの陰口を聞いて回ることだった。こちらの方は、もっぱら口頭ベースで、やれAさんは隣の部の妻子ある男性と、もう三年に渡って不倫関係にあるらしいとか、この前会社の近くのコンビニで実に巧妙に万引きをしていたのをみかけた、とか、根も葉もない話を吹聴して回るのが役割だった。そのくせ、決して本人の前では言わない。明らかに根拠の無い陰口で、聞いていてこっちが不快な気分にさせられる。  みんながうんざりしていたが、課長とその右腕のK子さんと彼等の子飼いのスパイみたいなS子さんがやっていることに、表立って逆らうことは、相当勇気の要ることだった。みんな、結局Aさんのことを見て見ぬふりを続けるしかなかった。  そんなある日のこと。  始業時間になってもAさんが職場に現れなかった。真面目な人だから、遅刻なんかしたことが無かったので、今日はどうしたんだろうと、みんなが思っていた。課長が苛立たし気に、「ったく、あいつ何やってんだ」とぶつぶつ言い始めたのを受けて、K子さんが「飲みすぎて二日酔いにでもなってるんでしょう。自己管理の出来ない人なのよね」とか悪口を言い出す。  とにかく電話しろ、ということになって私が電話させられたが、携帯も家電も何度鳴らしても出ない。  そうこうしているうちに、職場の外線電話が鳴った。警察からだった。  Aさんが自宅近くの路上で死体で発見されたそうだ。状況から見て、住んでいるマンションの5階にある自室のベランダから身を投げたらしい。  さすがに騒ぎになった。課長は「この忙しい時に……ったく、最後まで迷惑かけやがって」とかブツブツ言いながらも、管理職として対応に追われていた。それを見ながら(あんたが殺したようなもんなんだから、自業自得でしょ)と私は心の中でつぶやいていた。職場のみんなも多分同じ気分だったろう。K子さんとS子さんを除いては。   Aさんは特に遺書のようなものは残さなかったらしい。結局、自殺といじめを結びつける決定的な証拠も無く、いじめが常態化していた事実を社内や警察に通報するような人もいなかった。課長たち三人のやってることは、見ていて不愉快だったけど、厄介ごとに巻き込まれるのは面倒だったのだ。下手にこの事実を表沙汰にして、今度は自分がターゲットにされたらたまらない。みんながそんな風に考えた。この私もそうだった。Aさんのことは本当に気の毒だと思ってはいたけど、自分を危険にさらすことは出来なかった。  Aさんの葬儀も終わって一週間ほどした頃。帰宅した私の自宅のポストに不在通知が入っていた。  差出人の名前を見て驚いた。Aさんの苗字が書かれている。  何これ、死んだ人からの荷物なんて……いや、苗字しか入ってないから、ご遺族?ああ、お香典返しか。とりあえず再配達してもらった。  送られて来たものは、厚さ3センチくらいある大判の封筒で、差出人の名前はやはりAさん自身になっていた。不気味な感じを覚えながらも、とりあえず開封すると、中には一通の手紙と、きちんと製本された一冊の冊子が入っていた。冊子の表紙には、”業務引継書”と表示されている。  何だろう……先ずは、冊子の方にさっと目を通してみた。  それはAさんが長年あたためてきたアイディアを現実化する為の詳細な業務手順書、いわばマニュアルだった。Aさんが夢見ていた職場の業務改革について、緻密でわかり易い業務フローが記載されていた。必要な手順、参考資料の探し方から資料それ自体のコピーまで添えられている、完璧なマニュアルだ。これなら誰が見ても、Aさんの遺志をついで、彼女が夢見ていた業務改革を完遂できる。  何よりも私が感動したのは、Aさんの志の高さだった。最初は個人的な問題意識から始まったものだが、それからもっと進んで、どうしたらこの会社を良くできるか、みんなが働きやすく、幸せになるような業務改革をどうやって実現するか、という視点に立って、このマニュアルを作りこんでいったのだ。確かにこれが実現したら、この職場の業務効率は飛躍的に向上し、生産性も劇的に上がるだろう。  同封された手紙には、Aさんがこのマニュアルを作った趣旨、そして、この私にAさんの意思を受け継いで、このマニュアルに書かれた業務手順を是非実現して欲しいという彼女の強い願いが綴られていた。残念ながら自分はもう疲れてしまって、自ら生命を絶つことにした。でも、このやり残した仕事については、どうしても未練が残っている。今の職場で自分の思いを託せる人間は、一番若く、純粋で、様々なしがらみの少ない貴女しかいない。ご迷惑は充分に承知の上だが、配達日指定にしておいて、自分の死後、貴女の手元に届くようにさせてもらった。どうか自分の遺志を継いで、職場の為そして会社の為に、この業務手順の実現を、貴女の手で成し遂げてほしい。  そんな大切な思いを自分に託してくれたことが、私はとても嬉しかった。いわば彼女の悲願とも言うべき、このプロジェクトを私に託してくれたなんて……  私は、Aさんの志を実現することを決意した。  それから約一月ほど後。  ことあるごとにAさんの陰口をきいて回っていたS子さんが、無断欠勤をした。  職場の誰にも連絡が無く、携帯に何度も電話しても出ないので、騒ぎになり、仲の良かったKさんが自宅のマンションに様子を見に行ったところ、首を吊っているのが発見された。 「もう、すんごいの!目玉が飛び出しそうに開かれて、赤黒い舌がびろんと飛び出しててさ!足下には水たまりが出来ててね!あれ、オシッコだったのよね!」  第一発見者となったK子さんは、それ以来、得々として職場でその情景を披露するようになった。身振り手振りを交えて、時々妙な笑顔を浮かべながら、聞かれもしない話を何度も喋りまくるK子さんのことを、みんな段々と不気味に思うようになった。仲の良かった課長でさえ、しまいには「もういいよ!」といって不快そうに話を遮ることもしばしばだった。  それから一週間ほどしたある朝、彼女が使っている通勤電車の駅員から、職場に連絡があった。  入線して来た電車に、ホームに立っていたK子さんがいきなり飛び込んだそうだ。  周囲の状況から見て明らかに自殺なのだが、今回も遺書も何もなく、誰も自殺の動機については分からなかった。葬儀は身内だけでひっそりと執り行われた。もっとも、密葬でなかったとしても、この職場から彼女の葬式に行こうという人は、多分誰もいなかったろう。課長以外には。  そして、このころから、課長の様子もおかしくなってきた。目の周りに隈ができて、髪の毛もボサボサになり、身だしなみも目に見えてだらしなくなった。会社にも遅れてくるようになり、仕事中もぶつぶつ独り言を言うようになって来た。何か言われたのかと思って聞き返したりすると、突然「うるせえ!」と大声で怒鳴りつける。しまいには直属の上司の部長にもそういう態度を取るようになり、明らかに常軌を逸した行動ばかりが目立つようになった。  そしてそんな状態が十日ほど続いた後、とある日曜日の朝、課長は自宅マンションのベランダから飛び降りた。やはり遺書は無かったらしい。  こうして、いじめに関与していた連中が次々に死んでしまった結果、職場の雰囲気は見違えるように良くなった。みんなが自分の職場に誇りを持てるようになり、モチベーションも目に見えて向上し、自由に意見を交換することが出来るようになり、生産性も上がるようになった。みんなが笑顔になり、いきいきと声を掛け合うのを見ていると、私も自然に笑顔になる。今月から新人の子が入って、この私が先輩として指導するようになった。今は、本当に毎日が充実している。  そう、私がAさんから受け取ったあの"完璧なマニュアル”は、呪いの手順書だったのだ。  私はそこに書かれているとおりの手順を、ひたすら忠実に、正確に実行したに過ぎない。そしてその"成果"は、確実に現れ、私を通じてAさんに呪いをかけられた三人は、次々に自らの生命を絶っていった。自分がいじめの対象になっていたわけではないが、横でいつも不愉快な思いをさせられていた私には、後ろめたさなど勿論無かった。寧ろAさんの復讐のお手伝いが出来たことを、誇りに思ったくらいだ。そして、私がこのマニュアルの手順を実践したことにより、今の職場はとても風通しが良く、雰囲気も明るくて、働き甲斐のある所になっている。その意味からも、私は自分のやったことに誇りを持った。  そんなある日、私が面倒を見ている新人のFさんが、妙に思いつめた表情で私のところに来た。 「あの……先輩。その、ちょっとご相談が……」 「なに?」 「あの、ちょっといいですか?」  彼女は人目を避けるようにして、私をわざわざ無人の会議室に連れ出した。 「どうしたのよ、あらたまって」 「あの……まず、どうか私のことを変な子だと思わないでくださいね」  Fさんが真剣な眼差しで私の目を見つめてくる。 「Fちゃん、どうしたのよ、一体」  緊張をほぐそうと思って、わざと笑顔を見せながら、彼女に尋ねてみる。 「はい。あのですね、私って昔から……その、所謂”視える”人なんです」 「”視える人”?」  思わず聞き返してしまう。 「はい。その、つまり、人には見えないものが見えるんです。はっきり言うと、霊とか、そういうものが時々見えるんです」  思いつめたような口調のままFさんが続けた。 「それで……あの、これ、本当に嫌味とかそんなんじゃないんです。ふざけているわけでもないんです。だからどうか怒らないで聴いてほしいんですけど……その、先輩の後ろに、時々……」  Fさんは俯くようにして口を噤んでしまった。 「私の後ろに?何か見えるの?」  私は彼女を励ますようにして、促してみた。 「はい。女の人が……」 「女の人?」 「はい。丸顔で、少しウエーブのある黒髪で、黒ぶちの眼鏡をかけていて……」  私はどきりとした。そういう姿の女性に心当たりがある…… 「そういう女の人が、私の後ろに立っているのね?」  Fさんが黙って頷いた。 「ふーん……」 「もしもその霊のせいで、先輩が病気になったり、危ない目にあったりしたらと思ったら、もう心配で心配で……だから、変な話しちゃって……すみません」  どうして良いか分からないままに、Fさんなりに、一生懸命私のことを気遣ってくれたのだろう。そんな純粋な彼女がとても愛おしく思えた。 「わかった。有難う、Fちゃん。あなたの気持ちがとっても嬉しいわ。今のところ、特に危ない目にあったことも無いし、体調も万全だし、どこもおかしいところは無いのよ。でも、出来るだけ気を付けるようにするわ。だから心配しないでね。Fちゃん、教えてくれて本当に有難う」 「はい」  殆ど泣きそうになっていたFさんが、少し笑顔になった。  会社から帰った後、ワインを飲みながら、私はゆっくりと考える。 「やっぱり、このままにしておくわけにはいかないだろうなあ……」  私はため息をつきながら、クローゼットの奥から、しばらくぶりに例の”マニュアル”を引っ張り出してくると、憂鬱な気持ちでページを開く。 「とってもいい子なんだけど……”視える”のは本当らしいし、いずれ厄介なことになるのは目に見えてる。残念だけど……」  5ページほど読み進んだところで、ワインで火照った顔を冷やして頭をはっきりさせる為に、洗面台で顔を洗った。顔を上げると、鏡に私の姿が映っている。 「また、お力を貸してもらえますよね?」  鏡の中で、私の後ろに立っているAさんが、にこりと笑った。 [了]
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!