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この街には魔女がいる。人の不幸と絶望を好む優しい魔女だ。そんな話がいつの頃からか流れ始めた。
帝都は華の都。
大通り沿いに立つ、ありふれたカフェー。
昼も下がりの午後三時半、この時間になると、このカフェーでは決まってカランカランと来客を告げるベルの音が鳴る。
「こんにちは、マスター」
平均年齢が高く賑やかいカフェーの中で紅一点と言った感じの女学生。真ッ赤な大きいリボンで髪を結い、紫地に八重の茉莉花の袴を纏う麗しくも幼げな少女。
「やァ、お疲れ様。いつもの席が空いてるよ。」
「まァ!ありがとうございます。」
両手の指先だけを合わせて愛らしく微笑んだ。
カウンター右隅のL字角。ここが彼女の定位置だ。特別そこを開けていたわけではない。彼女は常連でいつもそこに座るため、他のお客もどれだけ混んでいてもそこだけは開けるのだ。この店の間取り的にそこに彼女が座ればどの席からも彼女を眺めることが出来る。お客もそれを知っている。雇ってもいないのに看板娘のような扱いだ。彼女が注文する前に、砂糖多めの鮮やかな紅茶を席に出す。これも毎度のことで彼女はそのまま、特に何をするわけでもなく大抵二三時間は居座るのだ。
「いやァしかし、時の政権が変わってからというもの、物騒な事件が多くて困るねぇ。」
ふっと、少女を見た。今彼女にとってそれは最もセンシティブな話題だったからだ。
「大丈夫かい?」
不安げに女学生に問うが、彼女は何食わぬ顔でにこりと微笑んだ。お客達はその微笑みを摘みにコーヒーを入れて頬を緩ませる。時の政権が変わってからというもの、確かにこの街は物騒になった。まだ体制が整っていないからというのもあるのだろう。この店にもよく嫌な客というのは来るもので、見逃すはずがないほど可愛らしくも嬋媛な彼女はそんな被害に遭いかけることも少なくはない。
「そういや、マスター。最近、見かけねェな。嬢ちゃん目当てのガラの悪い客。ホラ、小指のない大男。」
「嗚呼、そういや最近見ないねェ。こちらとしてはその方が嬉しいが。」
「ハハハ、違ぇねェ。」
ただのゴロツキなら追い出せばいいだけの話。だが、昨今そうもいかない輩が多い。俗に成金と呼ばれる者たちだ。彼らは決して綺麗な身の上の者ばかりではない。その嫌なお客というのも屋敷を持つようなゴロツキで、そんな輩が来るようになっても茉莉花のお嬢さんは欠かさず通ってくれるもんだから、嬉しくも気が気ではなかったのだ。何せ茉莉花のお嬢さんは歴とした華族のお家。ゴロツキの成金には煙たいような存在だ。ある意味このカフェーで一番危ない存在こそ彼女なのだろう。
と、カランカランと再び音がして新聞屋が入ってきた。
「毎度どうも」
受け答えて自分用と店用の新聞を受け取ると、店用の数冊の新聞を朝のものと入替える。
そうして、ふと目に付いた記事に目を眇めた。
「おいおい、これは……」
見間違いでないことを確かめるようにもう一度その記事に目を這わせた。
「どうしたい、マスター」
お客が問うと、マスターはその新聞をお客の所へ持っていった。
「ホラ、帽子屋の所の娘さん。例の殺人鬼に殺されたみたいだ。」
「なんだって!?……可哀想に、朝早くから店の前を掃除するような立派な娘さんだったのに。しかもあそこのお嬢さん、確か結婚を控えていたろう。」
「嗚呼、しかもまた首を切られて血を吸われていたそうさ」
「なんておぞましい。若い娘ばかり襲われて、うちの嬢ちゃんが心配だよ」
そう言って、お客は女学生に視線を向けた。
当の本人は聞き耳を立てながら白々しくも我関せずといった様子を決め込んでいて。
間違いなかった。
彼女がこのカフェーに訪れるのには理由がある。私にとって、喜びも悲しみもできるある理由が。
どうやら、”また”見つけちまったみたいだね…
茉莉花のお嬢様には来て欲しくはない。だが、同時にそうは願えない。たとえこの場が危険だったとしても、彼女がその花を見つけてしまう限りは。
「嬢ちゃん、今日は私がお屋敷まで送ってあげようかい?」
お客が提案すると、女学生はくるりと振り返る。
「まァ、頼もしい!でもごめんなさい、遠慮しておきます。嫁入り前に他の殿方と居ると家の者が五月蝿いので。」
両手の指先だけを合わせ、申し訳なさそうに微笑む彼女を見て、再びほっこりとコーヒーをすする音がする。
まぁでも…少なくともこのカフェーは安全地帯かね。
ふっと、マスターは顔をほがらめた。
「ところでマスター、その記事少し見せていただけませんか?」
「嗚呼、いいとも。」
マスターは自分用の新聞を女学生に渡す。
女学生は紅茶を片手に目を通す。
その横姿相も変わらず年に似つかないほど麗人のようで。
と、カランカランと音がする。マスターは入ってきたそのお客に目を剥いた。
「あ、あんた……」
そこに立っていたのは卒業間近の男子学生。酷くやつれた顔をして、相当泣いたのだろう。首にまで涙の跡が残り、心ここに在らずといった様子でカフェーの空いている席に腰掛けた。
やれ、来てしまったか…
その顔はとてもよく知っている。例の殺された女学生の婚約者。落雁邸(らくがんてい)のおぼっちゃま。
「ご注文は…」
客であるからには聞かねばならない。
恋人を失った青年に、いったいなんと話しかけたらいいのやら。
マスターは戸惑いながら問うと、青年はコーヒーを所望した。
マスターがカウンターに戻ろうとすると、丁度女学生が席を立つ。
「おや、今日はもうお帰りかい?」
そう尋ねると、「近頃物騒ですから」と言って、学生の横をすれ違う。女学生はすれ違いざまに何かを耳打ちしていた。
なるほど彼が今夜のエサらしい。
と、青年は目の色を変えガタリと席を立つ。その尋常でない物音にカフェーのお客達は一斉に青年に目をやった。
だがよくある話だから私は傍観した。静止など邪魔なだけ。この先の展開を知った上で毒を刺した彼女には。
「おい待てッ!」
「はい。」
振り返った女学生に青年は血相を変えてその頬を思いっきりひっぱたいた。
少し強すぎやしないかい!?
あの娘が殴られるのはよくある事で本人もそれを覚悟の上の発言だから傍観していたが、あまりの衝撃に壁に頭を打って床に倒れるものだから、慌てて駆け寄った。近くのお客も今にも馬乗りになって殴りかかりそうな勢いの青年を何とかして取り押さえる。
「おい、お嬢さん大丈夫かい!?」
しかし、女学生はケロッとした顔で「ええ。」と短く答えた。
幸い傷はない。
にしてもこの、清廉な姿。
ただ静かに経緯を持って相手を見下ろす瞳。
殴られた事になど微塵も腹を立てていなくて。
「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!!
どういう了見だッ!」
声を荒らげる青年に、女学生は一つ礼をしてカランカランとカフェーを出ていった。
それから幾らかが経った夜の晩、皆が寝静まった頃。サッサっと地面をする音を立てて、暗がりの大通りを一人の女が歩いていた。これ程暗くても目立つ真ッ赤なリボン、カフェーに居た八重の茉莉花の娘だ。少女はとある人気の無い路地の角へ曲がると、そこで立ち止まった。同時にザッ、と、音を立てて別の足音が止まる。
「来ましたね。」
少女が振り返ると、そこには手紙と包丁を持ったこないだの青年がいた。むざむざと婚約者を惨殺された青年だ。息は上がり、動脈は浮き出て、その表情はまるで般若だ。包丁を握る手はカタカタと震え、まっすぐと。少女の”後ろの男”を見ていた。
『少し待ちなさいな、犯人を捕まえて見せましょう。その時どうするかは貴方次第。』
カフェーで耳打った言葉が現実になっていることに、青年は戸惑いと怒りの瞳で目の前の光景を眺めていた。
「さァ、どうぞ」
「ん゛ん゛ン゛ン゛ン゛ッ!!!」
少女が手を向けた先では大男が逆さ吊りになっていた。足を縛られ、口はボロ布で塞がれ、片腕はだらりと垂れ、もう片腕はボロい布切れで拘束されていた。そして何より、その男には”小指がない”。
少女は包丁を構えてカタカタと震える青年に歩き、その震える両手に手を添え、同じように男を見て、耳元で囁いた。
「残念ながら、貴方が今やろうとしていることは明確な犯罪です。法に裁かれる事はなくても確実に地獄に落ちることになるでしょう。あの男と同じです。それでも貴方は殺したいですか?」
「…。
寝顔が可愛いんだ……」
青年はおぼつかない口を開き、震える声を絞り出す。
「佳奈(かな)は…授業中よく寝るんだよ…
当たり前だろ?だって日が昇る前に起きて店の準備をしてるんだ…
そんな早くに起きて、あんなに広い店を片して、それも毎日。昼間に眠くならないはずがない。」
茉莉花の乙女はただそれを黙って聞いた。
「でもさ…佳奈はいつも楽しそうに振舞って、実際楽しんでた。店が広くて掃除が大変だーってボヤくことはあっても、疲れきって授業中に眠ることはあっても…嫌な顔なんてしてなかった。凄く…凄く可愛い顔してさ、幸せそうに先生の目の前で堂々と眠るんだよ……みんなに見られてみんなに笑われて。馬鹿だろう?
それが本当に……愛おしくて…
ッ!!!佳奈がッ……」
噛んだ唇から血が伝う。
「佳奈が一体何をしたってんだよッ!!」
怒号をあげようと、口を縛られた男はただ悶え、呻くのみ。怨嗟も、嘆きも、聞いていながら何も答えない。呻く声が吐こうとする言葉は「離せ。」佳奈など認識していない。
誰のことかも分からない。ただ己が悦楽のために殺した”少女の一人など”覚えているはずもない。昨日の小娘か、一昨日の小娘か、一週間、一ヶ月。男にはどの娘のことに憤られ、何者に恨まれているのかさえ理解しえなかった。
その様を、お前は誰だと見るその瞳を。
青年は深い憎しみの瞳で睨み返した。大切な婚約者を殺された。フィアンセの当然の権利として。
「死後の世界など、あるかも分からぬものなんぞどうでもいいッ!今ここで、こいつの息の根を止めてやるッ!!!」
少女の質問に、青年は激高した。少女は不敵な笑みを浮かべ、頬に手を当て赤らめる。青年の背後から手を回し、包丁を構える手と、怒りの熱を帯びたほの頬に手を触れて。高揚した声音で艶やかに耳元へと語り掛けた。
「素晴らしい。なんと芳醇な、敬虔な愛でしょう。であれば、その包丁をあの心臓に突き立ててなさいな。何、難しいことではありません。あなたはあの男にゆっくりと近付き、気が済むまで心臓を刺せばいい。グサッ、グサリと。彼は吸血鬼ですから何度も殺さねば死にません、きっと手がおれるでしょう。ですが何も心配には及びません。証拠は私が作りましょう。アリバイも私が作りましょう。凶器も私が処理しましょう。死体も私が消しましょう。
けれど、あの男を殺すのは貴方の殺意。
さァ、モタモタしていると野犬が来ます。彼らは死の呪いを持っている。致死率100%の不治の病を。血が溢れれば誘われる。餌の香りに誘われて。先を越されたくないのなら、憎しみを込めて殺したいのなら、どうぞお早く。」
そう言うと少女は青年の手から手を離し、八重の茉莉花が施された懐から一つのカステラを取り出した。
「私は少し向こうでカステラを食べています。食べ終わるまで野犬は来ませんから、その時までに。」
少女はそれだけ伝えると、スタスタと路地を出ていった。背後には呼吸の荒くなった男と助けも呼べないその身で声を荒らげる男の二人だけ。
「よしよし、おいでお前達。」
少女は街灯のほのかに照らす大通りでカステラを少しちぎり、集まってきた野犬たちを愛でていた。
あれは数時間ほど前の事だ。
ザッザッ……
さっきと同じようにこの路地に入ると、大きな足音が再び鳴った。振り返るとそこに居たのは小指のない大男だった。
「こんな夜更けに一人とは。殺人鬼の話を知らんのかい」
男は歓喜したように少女に歩み寄った。何度も狙ったカフェーの女学生。それが夜更けに一人で歩いている。男は今夜の食事に少女を選んだ。
「殺された子達は……」
少女が口を開くと男はピタリと足を止めた。
「贄にされたのか、糧にされたのか」
そう問うと、男は卑しく顔を歪めて
「”糧にして”贄とした」
と、応えた。
「その言い回しをするってこたァ、やっぱり嬢ちゃんはこの国じゃもはや希少な本物の魔法使いの家系。しかもそれなりの貴族様ってことでいいんだなァ?」
「魔法使いだなんておこがましいわ。私は”咎を押し付けられた魔女”なのだから。」
男はナイフを持って歩み寄る。圧倒的に小柄な女が相手だ。構える必要さえない。しかし、少女は不気味にも平然としていた。
「どうでもいいさ、魔女であることに変わりはねぇ!俺ァ命が欲しい。欲しくて惜しい。裏切り者に隠れアジトをバラされて、復讐心煮え滾らせたクソ共に小指を奪われてからそう思うようになった。そんな時だ。とある魔法使いが教えてくれた。魂とはただの力の源にすぎないと。それに意思は無く。感情は無く。そうであるが故に他人の魂は自分の魂になりうると。贄と成りうると。」
少女はぴくりとした。その様子はどこか嬉しそうで。
「しかしあなたは徒人。魔法なんて無縁故に聞く必要がなかった。けれどその魔法使いはさらにこう言ったのではない?魔力(マナ)を持たざるお前でも、他者の魂(オド)を喰らい糧とすれば贄を贄たらせると。」
「ほぉ、嬢ちゃんさては知り合いだったか。ならその魔法使いは気の毒だったなァ。まさか教えた相手に知り合いが殺されるとは。」
「……それは無いわ。あれは私にも同じことを持ちかけたのだもの。」
ボソリと呟いた。
ザリザリと歩み寄る男に。その歩みの跡に茉莉花の少女はしたり笑う。
「ところであなたさっき面白いことを言いましたね。こんな夜更けに出歩いて、殺人鬼の話を知らないのかと。
ねェ、殺人鬼さん。あなたこそ知らないのかしらん。人の不幸を好んで喰らう、”茉莉花の魔女”の話を。」
ピン、と少女の小指が何かを引っ張る。
「なっ!?」
男は刹那足を取られて転がった。何が起こったのか分からない。したところでもはやどうにも出来なかった。男は足を布に縛られ宙に吊られる。
持っていたナイフは地面に落ちて、それを掴み取ろうとするとまた別の布に腕を取られた。少女は懐から真ッ赤な林檎を取り出すと、声を塞ぐよう男の口に無理やり押し込み、ボロい布切れでナイフを覆うように拾い上げる。身動き取れない男の背後に回ると、未だ自由な男の左腕を切りつけた。返り血が飛ばないように布で覆ったナイフを男の腕の関節に突き刺した。腱を切られた男の腕はだらりと垂れ、林檎を吐き出し、恥も惜しまず悲鳴と助けを呼ぼうとする口をナイフを覆っていた布で塞ぐ。
「魔力(マナ)にせよ、魂(オド)にせよ、うら若い生娘の方がいいものね。最初に狙ったのは私でしょう?
帽子屋の少女は朝早くに店の前の庭を掃く。まだ人気のない時間だから、攫いやすいわ。
けど私は違う。遅くても人気の多い時間に帰るし、馬車での移動が多いものだから狙えなくて渋々と獲物を変えた。だからマスターのカフェーに来なくなったのでしょう?それじゃあ困ったから、ちょいと夜半にこの道のりで貴方の屋敷の前を通ってみたのだけど。」
振り返り宙に吊られる男の背を見て少女はクスリと笑った。
「敵に回すといちばん怖いのよ。女はね」
「んん!!んんーー!!」
口を塞がれてはもがき苦しむ声も助けを呼ぶ声も喘ぎ声と変わらない。仮に聞かれたとて聞かぬふりをされるだろう。
男の背を押し、くるりと回して正面に向けると少女は大通りへ出ていった。
あとは先程の流れだ。ひたりひたりと雫の垂れる音がする。指についたカステラをぺろりと舐めると、少女は野犬を待たせて再び路地へと入っていった。
「アら、これはこれは。」
そこには行きも絶え絶えにズタズタになった男がいた。口枷の布が無くなっている。しかし喉はかなり殴られていた。「なるほど」と少女は思った。喉を潰してから喋らせたのだろう。それで怒りが増幅し、あとはもう言わずもがな。さすがは医者の息子と言ったことろか。
「ハアッハアッ…ッなんなんだこいつは!!」
「いったい”何度殺された”のかしら」
オマケにまだ意識も息もある。長く苦しめる為だろう。「殺してくれ」と掠れる男も気にとめず、少女は手早く仕掛けの布を解いてその場に捨てる。支えるものが無くなったものだから男はドサッと力なく地面這いつくばった。それを見て「あと二、三回かしら?」と小さく婀娜に微笑み、少女は青年に向き直る。
「さて、そろそろ時間にございます」
「……佳奈は…佳奈は…なんでこんな奴に…!
……彼女がいなくなったこの世界のどこに僕の居場所が……」
男は疲れきったような失ったような暗い顔つきを見せた。困ったような顔をして少女は青年の手から包丁を優しく取り上げる。
「死者の魂は怨念でもない限り現世に留まることは有り得ません。あなたのフィアンセはもはやどこにも居ないでしょう。」
「……ッ!!」
苦虫を噛み潰したような嘆息が漏れる。
「死者のために生者ができることなんてその人を忘れないこと。そのただ一つ。けれどさっきまでのあなたはフィアンセの事よりもそこの殺人鬼にご執心だった様子。それではあまりにも彼女が報われないでしょう?
ですがこれで、今は亡き婚約者の事よりもこの男のことを考える夜は、もう来ない。」
そう諭すと、青年はピクリと目を動かした。
「嗚呼、そうか。そうかもしれない……」
未だ青年は少し放心していた。強い感情を突然失うと、空っぽのようになって虚無に浸る者は多い。包丁から血を拭き取り、布に包んで懐に仕舞うと少女は青年の手を取った。
「忘れさえしなければ、覚えてさえいれば、その心に生き続ける。それが傲慢な人間が死に抗う古来からの方法なのです。さ、此方へ。汚れたお召し物を変えましょう」
そう言って少女は青年と共に路地を出る。餌を待つ野犬達に「お行き」と告げると雪崩込むように路地の中へと入っていった。さてあと何度男は死んだのだろうか。もしも死にきれなかったのならなんて可哀想だろう。
『狂犬病』
あの子達は生ける劇薬そのものなのだから。
翌日、カフェーの右隅、L字席には真ッ赤なリボンを頭につけて八重の茉莉花の女学生がいた。相も変わらず甘い紅茶を口にして、何をするでもなく、看板娘になりながらただゆっくりと居座っている。マスターは新聞屋から夕刊を受け取り、店の分をしまって目を通す。
「あのお客……」
ボソリとつぶやくと、「この頃本当に物騒だねェ」とこぼした。
カランカラン、と音が鳴る。少女がそこに目をやるとあの青年が立っていた。その赴きはとても健康的で、青年は女学生に目をやると一礼して微笑み、彼女の隣りの席に座った。
「数日経って、人からあなたの事を聞きました。」
「それはそれは。どのようなことをお聞きになったので?」
隣に座る少女は紅茶を啜り、穏やかに話す。
青年は罪悪感からその艶やかな横顔から顔を背けた。
「茉莉花の魔女は人の不幸と絶望を好んで喰らう。僕は佳奈とよく、なんて怖い魔女がこの街にはいるのだろうって話していました。」
ふと、その話をしてくれたマスターを見やると穏やかにニコリと笑われただけだった。
「恐ろしい魔女だったでしょう?
人の負の感情に漬け込み、揺さぶり、殺人を誘導して殺させる。美しい笑みを心から浮かべ、滾る声音で人を殺させる。
彼女は狂人、冷酷な魔女です。」
そう、語る少女の顔は何も動いていなくて。
だがそれは違った。
「……そうしなければ、生きていられないのでしょう?」
問いかけると、少し視線がマスターの方へと動いた気がした。本当に、ほんの少しだけ。
気の所為かもしれないけれど。
「茉莉花の魔女は咎を押し付けられた魔女。家に向けられたあらゆる呪いをその身に引き受けてしまった哀しい魔女。」
「マスター……」
核心を突いたのだろうか、じとっとした瞳で少女は呪うようにマスターを見やった。
当の本人は悪びれもなく、テヘっとでも言いたげな様子で。
少女は手を広げる。その中には解けた茉莉花の花弁が三ひら。
「そう、私はそう在らなければ生きられない。呪いは私から魔法を奪い、人の憎悪を喰べなければ二週間もすれば散ってしまう体に変えてしまった。人の残穢が残るところに季節も土も関係なく茉莉花の花が咲き誇る。その花を咲かせた人は何故かこのカフェに惹き付けられる。だから私は花を摘む。哀しみと憎しみに溢れたその花を。」
彼女の顔が両手に包む紅茶に映りこんだ。
「だからこそ…だからこ私は、いつか散ってしまえる日を夢に見ている」
彼女は命綱の花を摘み、その命を長らえさせる。しかしそんな彼女はいつか散ってしまえる日を。花を見つけられない日々を捜し求めていた。たとえその一瞬、彼女の周りだけだったとしても。その少しの間だけでも世界が優しくあれたなら。
この街には魔女がいる。人の不幸と絶望を好む優しい魔女だ。
なんて恐ろしい魔女がいるのだろうと思ったものだ。けれどそれは違った。
彼女はそうあらねば生きられず、そうでありながら一時でも世界の平和を。不幸に魅入られた自分の身が、儚く散ってしまえるほど優しい世界を望んでいた。
その在り方はとても優しい。
だが同時に他者の憎しみに惹かれてその復讐に甘美を覚え、自分より他人の幸せを願う彼女は。
その在り方はどうしようもなく理解ができない。正しく魔女。
そんな甘い幻想を胸に抱いて。
「僕の名前は神崎 冬弥(かんざき とうや)。
魔女様、君の名前を教えて欲しい。」
佳奈の事を、婚約者のことを忘れたわけではない。ただ、それとは別の。けれど、どこか酷く似たその莫迦さに冬弥は少し胸を貫かれたのかもしれない。
茉莉花の魔女は少し婀娜に笑って。その困ったような表情がとても可愛かった。
「釼持 茉莉花(けんもち まりか)」
青年は朗らかに笑う。
「よろしく、マリカ」
このカフェーの常連客はまた一人増えたらしい。そうマスターは知った。
カランカランと客が来る。
「いらっしゃい、お客様ご注文は?」
魔女のお客は今日も絶えない。
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