前原啓太の話

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前原啓太の話

まだ朝の七時前にも関わらず横浜駅の京浜東北線のホーム内は相も変わらず人達が慌ただしく、それはあたかも、まるで何か身内に重大な事件でも起きていて、慌てて駆けつける時であるかの様な、皆が一様に、怖い、真剣な目つきで正面をギラギラと見据え、足早にホーム内を行き交っていた いっつもこれがまだ今だに慣れない敬太にとっては、このホームを移動する事ですら容易な事ではなかった 南口の改札から、ホームの中程まで 自分とは逆に、ホームから改札へと向かう人達の流れに逆らって、やっと辿り着く事だけでも啓太にとっては大変な苦労だったのだ 毎日の事ながら、もうこれだけでかなりなストレスが蓄積される だが、まだここから会社のある大森駅まで、人達のひしめき合う、だが、いつも通りのこの電車の中に入っていかなくてはならないのだ 大宮行きの電車がホームにスーッと滑り込み、入り口のドアが開いた 敬太はいつもの様に車両連結部方面へ、なるべくスムーズに横移動して自分のポジションを確保した 車両連結部分は、それほど人の流れが無い為、いつもある程度のスペースだけはちゃんと確保できる事を敬太は約二年間のこの通勤生活の中で学習した 「ふう」 横浜から大森まで電車の、移動時間で言えばたかが二十分弱ではあるが、これがドア付近の人が押し合う所にいたらとても耐えられる物では無い 電車の揺れに合わせて、押し合う人の流れの中にその身を任せて右に左に、まるで、海の波に巻き込まれた砂粒かの様に、その大きなウネリの中に身を任せ、揺られ続ける事になるだろう 敬太は窓の外の流れる風景を眺めながら暫くヘッドフォンで音楽を聴いていた 不意に、何処からか 『え?いや!何?ちょっとこれ⁈』 若い女の子の様な声だった (え?) 敬太は自分の周りをぐるっと見渡した それらしい人物は自分の周りには見当たらない 入り口のドア付近だろうかと思い見てみたが自分の見える範囲の中ではそれらしい女の子は見えなかった いや、そもそもおかしいのだ 自分はヘッドフォンをしているし それでもこれほど聞こえる程の声量であれば、周りの人もその声に気付いてその方向を見る筈なのだが、周り人達はまるで何事も無いかの様に、いつものそこの、そこにある風景と同じ様に、お互いそれぞれがこの車両の中で『無心』を決め込んでこの車両の揺れの中でその身を任せている なんだったんだ?今のは? と、一瞬思っていた敬太の頭の中にまた 『ちょっと!いや!やめて!』 とその声が飛び込んで来た また改めてドア付近を見てみたが相変わらずそこで何かが起こっている様な気配はない でも、それはその場所で起こっている事では無い事は、本能の中では分かっていた 理屈では説明出来ない事だが、その声はここからもっと先、もっと離れている所から発せられた声なのだ よくよく思い返してみると、自分にはそんな事が、この時が初めての体験では無かった気がする 敬太がその中でも不思議な感覚として、ずっと覚えていたのは小学校に上がって間もない六才程の時だった 近所の公園で小学校に上がり、その小学校の中で一番初めに仲良くなった友達達と、サッカーボールで遊んでいた時だった 友達の一人がポーンと強く蹴って、転がったボールが、公園の入り口のポールを抜け、転げ出て道路に飛び出した時、敬太は丁度その一番近くに居たので、夢中で敬太はその飛び出したボールを拾おうとして、周りを良く確認せずに道路に飛び出そうとしたのだ その時、頭の中でキーンと叫ぶ様な 『危ないっ!!』 という鳴り響く様な大きな声を突然聞いた為に、敬太は一瞬、その場でビクッ!となって凍り付いた その瞬間、目の前を凄い勢いで白いトラックが敬太の前をすれすれで横切って行ったのだった その後、少してから見知らぬベビーカーを押した若い女の人が、その道路にある向かいの横断歩道の向こうから 「大丈夫だった?」 と言って駆け寄って来てくれたのだったが その位置から、敬太が車に轢かれそうになった場所までは結構な距離があり とてもその声が、それほどまでに響く大きな声で届く様な距離ではなかったのだ そもそもその声は敬太の耳から聞こえてきた声では無かった その声は頭の中に直接響いて来たのだった その後もよくよくと思いだせば、何度かそんな感じの声のおかげで危ない目から回避する事が出来た事があった様な記憶がある ただその経験は凄く幼かった時の記憶であった物が多く、敬太としてはそれが不思議な感覚によるものだったという認識も段々と成長と共に薄れて行って その事について幼い自分にはただ、ごく当たり前の事として認識していたので、今まで深く考えた事すら無かった為に、記憶として頭の隅にかけらも残っていなかったのだと、この時やっと気が付いた だから今日は、本当に不思議な感覚であり、その事には全く驚いていながらも、そのハッキリ聞こえる声の元を探ってみよう、と思った その声は少し悲痛で、今にも泣きそうで 多分その声は誰かに助けを求めている そんな風の声に聞こえた 今この助けを求めるその声が、聞こえているのは自分だけなのかもしれない 敬太は元々が正義感は強い人間だった だからといって今まで凄く真っ当で正当な生き方をしていたかと聞かれれば、否 それ程迄に聖者の様な素晴らしい、どの人にも誇れる程の生き方をして来た訳では無い いや、むしろごくごく普通の、凡人の生き方をしてきた ただ一つ、人よりも正義感が強いと言えるエピソードを挙げるならば 敬太は昔から本当にスーパーヒーロー物だとか正義超人とかの類いが人一倍好きだったと言う点位だ 昔から友達と遊べば正義のヒーローは誰よりもやりたがり、それが悪人役を他から指名されでもすれば途端にやる気をなくして、下手をすれば駄々を捏ねる テレビや映画はいつでもヒーロー物、正義超人物、それが青年になったとしてもやっぱり好きなのは刑事者であったり、勧善懲悪な番組や映画を好んで観る様なタイプだった 「ちょっと、すいません」 敬太は意を決して少しでもその声の方へ進もうと車両の中を押し分けながら横へ移動しようとした だがこの朝の通勤ラッシュの人でひしめいている車両の中ではそんな事出来るはずも無く 殆どの人は敬太の事を 「何だ?この変人は?」 と言うかの様な目付きで啓太の事を見下し、中にはこんな非常識な奴に、この大事な場所を一ミリたりとも譲るものか!とでも言わんばかりに、頑なにしてその足を踏ん張り、体を固くしてその道を譲ろうとさえしない者すら居た 当然と言えば当然である それがもし自分が逆の立場だとしたら この朝の通勤ラッシュの車両の中を人を押し除けて移動する様な輩が居たら自分でもその道を譲らないかも知れない 仮に譲ったとしてもその者に対する侮蔑の目は今、自分が向けられているこの眼差しと全く同じものであったであろう でも今でも敬太の頭の中には その助けを求める声は悲痛な叫びとなって響いている 『誰か…誰か…お願い!気付いて…』 もう近くで見ていれば泣き崩れているであろう声に変わってきている この周りに、誰も自分のこの状況を、全く理解して貰えない様な状況の中 それでも敬太は、前に進まなくてはいけない!そう思っていた 気付けば電車はいつの間にか川崎駅のホームに到着していて、そのドアはパカっと口を開け、明るい朝の日の光と新鮮な空気がその開いたドアから車両の中に流れ込んできた 敬太はその一瞬でパッと判断して一旦そこからかホームに降りて、また一つ先のドアに乗り込めばその声に幾分かは近づく事が出来るかもしれない そう思い、鞄を前に抱えた格好で車両からホームに飛び降りた そして次のドアを目指して啓太が、少し足早に駆けていった所で、そこよりも2つ先のドア、自分のいる位置から一つ先の車両から、背の高い黒いスーツの若い男が、痩せこけたグレーのスーツの眼鏡をかけた一見何処にでも居そうな中年の男の人の襟首を握って外に出てきた 「おいお前!警察に突き出してやる!」 そんな二人に伴って、その周りの事件の目撃者達だろうか、幾人かの男女もそのグレーのスーツの男の袖や鞄を掴みながら外に出てきた そして、それと同時にその後から今にも泣き崩れそうな、肩よりも少し長い髪をを三つ編みにした紺の女子校を思わせる感じのセーラー服を着た女の子が足元をふらつかせながら一緒に降りてきて、その子を中年のおばさんが脇から支えるような形でそれに伴っていた その間に車両のドアとホームドアは気付けばプッシューと言って閉まり ホームはその間発車のベルを鳴らしながらその車両が次の駅へ向かうのを見送った ホームはその騒ぎを聞きつけて駅員達もその騒ぎの元へ集い少しだけその周辺がざわついていた 敬太はその様子を少しだけ遠くで眺めながらその状況の意味を理解した どうやらその車両から引きずり出されたグレーのスーツの男が先ほど降りてきた女の子に痴漢行為をした様だ それを発見した黒いスーツの男性とその周りの人達がその犯人を警察に突き出そうとしてその一団がホームに降りてきた 啓太が推測するに、そういう展開だと思われた 敬太はその様子を車両約一両分離れた所からその事の成り行きを見ていた その彼女の心の緊急要請信号を敬太が誰よりもいち早く察知し行動に動いたとしても 結局啓太は彼女のその危機に対して何一つ出来た訳でも無く、 その啓太が一番最初ににいた、ひと車両前の啓太の周りの人達からすれば逆に、敬太は朝のこの混雑した車両に出没したただの迷惑なイカれ野郎でしか無かっただろう あっ…電車乗らなきゃ!遅れちゃう 敬太はその自分の不思議な力を得た充実感で満たされる事も無く ただただその気力を朝早くから使い果たし、ただただ肩を萎めて次の電車がホームに来るのを待つのであった
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